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第186話

そうして谷野と別れ、外来診察に向かった日下部は、まだ頭の中を整理できないでいた。 通りかかったバックヤードから、カーテンの閉まった3番診察室が見える。 「山岡先生、もう入ってる?」 たまたまそこにいた看護師に声をかけた日下部に、看護師はキョトンとして頷いた。 「はい」 「そう…」 「何かご用ですか?」 呼んできます?と首を傾げる看護師に、日下部は首を振った。 「別にいいんだ。さて、仕事しますか」 「そうですか?あ、今日担当私です、よろしくお願いします」 「うん、よろしくね」 ニコリと微笑んで、日下部は2番の診察室の中に入っていった。 「うん、術後の経過も順調ですね。また採血だけしていって下さい。そうしたら次は2週間後で…」 サクサクと診察をこなしながらも、日下部の頭の片隅には将平のことがあった。 (正直、無責任なことをした覚えはないんだよな~。女にわざと穴開けたりされないように、自分で持ってるのしか使ってないし…) 5、6年前の所業を思い出しながら、日下部は思考のどつぼに嵌まっていた。 「う~ん…」 「先生?」 「あ、いえ。ええっと、内科からこちらにでしたね…」 難しい顔をしていた日下部に、患者の不安そうな視線が向いてしまう。 慌てて気分を切り替えた日下部は、ひとまず目の前の仕事に集中することにした。 それからどうにか診察を終えた日下部は、ちょうどラストの1人を診ているらしい山岡が終わるのを待っていた。 バックヤード側に、山岡の声が小さく聞こえてくる。 (待たれていたら嫌がるかな) 山岡の反応1つが怖い、と苦笑しながら、ぼんやりと立っていた日下部は、不意に3番診察室のカーテンが開いて、らしくもなく緊張した。 「あ…」 「ん、お疲れ様、山岡先生」 バックヤードに出てきた途端、ギクリと強張った山岡の表情が見えた。 ニコリと笑って見せた日下部だけれど、内心はズキンと痛んでいる。 「あの…」 「うん、お昼…」 「っ、あの、子は…?」 いるんでしょう?と尋ねる山岡に、日下部は静かに頷いた。 「病棟のナースステーションにおいてある」 「じゃぁお昼も…」 「まぁ、食べさせないとな。一緒は、嫌だよなぁ…」 はは、と苦笑する日下部に、山岡は俯いてしまった。 「ごめんなさい…」 ストンと俯く山岡に、日下部は小さく首を振った。 「悪いのは俺。謝らないで」 「っ…あの、日下部先生」 「ん?」 「っ、もしも、もしもあの子が、日下部先生の…ッ、いえ、やっぱりなんでもありません」 ギュッと拳を握り締めて途中で話すのをやめてしまった山岡に、ふらりと日下部が手を伸ばした。 「っ…触らないで」 日下部の動きを察したか、山岡がギクリと身を引いて、咄嗟に叫んだ。 あまりに強い拒絶に、日下部はビクッと動きを止めてしまう。 「山岡…っ」 宙に浮いた手をギュッと握って、日下部がほんのりと微笑んだ。 「ごめん」 「っ、違っ…」 傷ついた日下部の表情がわかった。 山岡は自分の反応に驚きながらも、ブンブンと必死で首を振った。 「違うんです、オレ…」 「うん。わかるから、大丈夫。俺が浅はかだった」 ごめん、という日下部に、山岡はただ首を振った。 「俺さぁ、多分、違うと思ってるんだよね。考えてみたけど、やっぱり俺、こんな無責任なこと、してないはずなんだ」 女に手を出しまくっていたのは否定しない。だけど日下部だって、きちんと相手は選んでいたし、もし万が一失敗があったとして、5年も沈黙していた相手が今になって今更急にというのも、日下部にはどうにも納得がいっていなかった。 「まぁだからといって、可能性がゼロだ、と断言できないのも本当で。口だけで山岡に信じてもらえるとは思ってない」 「っ…」 「だから、最後の手段かとは思うけど、DNA鑑定も考えてるから」 覚悟しているように告げる日下部に、山岡の顔がクシャリと歪んだ。 「オレは…」 「うん。俺は、どんな結果が出ようとも、選ぶのは…」 「っ、オレは!ご、ごめんなさい、日下部先生。オレ、ちょっと気持ちの整理がつかないので。はっきりするまでオレは、帰らないので…」 聞きたくない、と耳を塞ぐ山岡に、日下部は口を閉ざした。 「昼も1人で食べます」 「っ、山岡…」 「大丈夫です。日下部先生がいなくても、ちゃんと食べますよ」 ニコリと笑ってドアを開ける山岡に、日下部は小さく頷いた。 「俺は…いや、山岡。もしとらがいいって言うなら、とらのところ、泊まってもいいからな」 疑わないよ、という日下部にペコリと頭を下げて、山岡は静かにバックヤードを出て行った。 「あ~くそ。これは早いところ、はっきりさせないとな…」 山岡もだが、日下部自身がもたない、と思いながら、日下部は山岡が出て行った方をぼんやりと眺めた。 「はぁっ。さてと、その厄介事の元凶のところへ行くとするか…」 正直、幼児の世話は得意ではない、と思いながら、日下部は病棟へと上がって行った。

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