201 / 426
第201話
病院を出た日下部は、将平を乗せ、指定されたホテルに車で向かっていた。
ラウンジという指定だけで、誰が来るのか、どういう状況になるのかさっぱりわからないまま、日下部はホテルの駐車場に車を滑り込ませた。
「さてと、行こうか、将平くん」
車を止め、将平を促して向かったエントランス。
ロビーを横切る足を、フカフカの絨毯が迎えてくれる。
「ったく、わざわざこんなラグジュアリーホテルを指定とか、誰の考えだか」
ブチブチと文句を言いながらたどり着いた、少し照明が落とされたムードのあるラウンジで、日下部は待ち人を探した。
「ママ…」
すぐに、将平がポツリと呟き、1人の女性を真っ直ぐに見ていた。
「ん?どれ」
「あそこ。上の…」
ラウンジの中でも、貸し切ってプライベートに利用できるバルコニーエリアを見上げている将平に、日下部は軽く頷いた。
「わかった。行こう」
ニコリと微笑んで、軽くヒラヒラと手を振っている、ドレスアップした女性。明らかに日下部よりも若いと知れる綺麗な女だ。
日下部は将平を連れて、その女性が待つバルコニーに上がって行った。
「八代、杏香さん?」
プライベートスペースに入った瞬間、真っ先に尋ねた日下部に、女性は魅力的な笑顔を浮かべて頷いた。
「あなたは日下部千洋さんね。存じ上げております」
ふわりと微笑み、座るよう促してくる杏香の仕草は、洗練されていて美しい。
「いえ。俺は将平くんを引き渡しに来ただけなので」
それさえ済めば用はないと、日下部は立ったまま将平を前に押し出した。
「女性の誘いを断るの?あの人とは違うのね」
小首を傾げて微笑む杏香を、日下部は冷やかな目で見つめた。
「父のお手付きに手を出すほど困っていませんので」
くだらない、と一刀両断にする日下部にも、杏香はめげなかった。
「女性に恥をかかせてはいけないわ。それに、聞きたいことがあるのではなくて?」
スッと日下部たちの背後から静かにやって来た給仕が、テーブルにアフタヌーンティーのセットをしていく。
「さすがはあの人の相手が務まるだけはあるようですね…」
はぁっと、大袈裟に溜息をつき、渋々であることをアピールして、日下部は仕方なく席についた。
「まーくんも座って」
自分の隣を示して微笑む杏香に、将平は黙って頷いた。
給仕が丁寧に入れてくれた紅茶の香りが、ティーカップから品よく漂った。
「……」
静かに一礼して去っていく給仕を見送る。
その姿が完全に見えなくなったところで、杏香が優雅に頭を下げた。
「この度は大変ご迷惑をお掛けしました」
それまでの強気な態度とは一変して、下手に出た杏香に、日下部は不審な目を向ける。
隣で将平が不安そうな目を杏香に向けたのが見えた。
「顔を上げてください」
「お許し下さるの?」
「子供の前です。込み入った話をするつもりはありません」
5歳児にしては随分と聡い将平を思って、日下部は杏香を直らせた。
「でも私に質問があるのでしょう?」
「その辺りの話は、明日あの人とします。どうせ元々あの人の差し金でしょう?」
ほんのりと微笑む杏香を、日下部が冷たく見つめた。
「でも2つだけ、あなたに直接確かめなくてはね…」
スッと鋭い空気をまとった日下部に、杏香の微笑んだままの顔がコテンと傾げられた。
「何かしら?」
「1つは、あなたは看護師だと聞きました」
「まーくん?えぇそうね」
「うちの、誰と繋がっていますか?」
嘘や誤魔化しは許さない、と見つめる日下部は、山岡の件が父に漏れたことを言っている。
「本当、聡明でいらっしゃるわ。悪気はなかったのよ?」
「わかっています。偶然だということくらいは」
日下部は、父に見張られているとは思っていないし、ましてや初めからスパイ目的で監視に向く女に手をつけたわけでもないこともわかっている。
けれどたまたま手を出した女が、たまたま日下部の病院のスタッフと繋がりがあって、たまたま情報を得られる状況を、父親が利用しないとも思っていなかった。
「循環器内科の看護師に、友人がいます。彼女、噂好きで腐女子なの」
ふふ、と笑う杏香に、日下部は納得した。
「その先は自分で突き止めます」
「ごめんなさいね」
「いえ。あと1つ」
スッと将平に視線を流してから、杏香に戻した日下部は、ゆっくりと1つ深呼吸をした。
「あなたにとって、将平くんは何ですか?」
道具というか、所有物と答えるか。
はたまた大切なものだと言ってくれるか、宝だと口にするか。
何を聞いても感情を揺るがせない覚悟をして、日下部はその答えを待った。
「まーくん?まーくんは、子供」
ニコリと、杏香が無邪気に笑った。
それまでの妖艶な微笑みを消し、ただ無邪気に。
「……」
さすがの日下部も、眉を寄せて思わず黙り込んでしまった。
「ふふ、希望と違ったかしら?」
「えぇ…」
「そうね。なに、と聞かれれば、私の子供。私はね、まーくんのためなら…」
なるほど、と日下部は思った。
オーソドックスな台詞が続くものと疑いもしていなかった。
「すべてを賭けて生きられる」
ニコリと楽しそうに笑った杏香に、日下部はハッと目を軽く瞠った。
「え?」
「私はまーくんのために生きられるの」
うふふ、と笑って繰り返す杏香に、日下部は小さく首を振った。
「普通なら、死ねると…」
「そうなのかもね。けれど私がまーくんのために死んでしまったら、その先誰がこの子を守ってゆくの?自分の何かと引き換えに背負った私の命を、この子に抱えて生きていかせるの?」
コテンと首を傾げる杏香に、日下部は思わず呑まれそうになった。
「だから私はまーくんのために生きられる。まーくんの人生のためだけに、生きていけるの」
それは命以上に重い、そして強い想いだった。
将平のために、自分の全てをかけられる覚悟。金も時間も存在すら全て。
「分かりました。俺から言うことはもう何もありません」
静かに頷いた日下部は、目の前のカップを取り上げ、一気に中身の紅茶を飲み干した。
「失礼します」
わずかも音を立てずにカップを戻し、日下部は席を立った。
「千洋さんっ…」
不意に、それまで一切の動揺を伺わせなかった杏香が、声を乱して日下部を呼び止めた。
「何でしょう?」
「あなたは、いずれ、敵になるかしら?」
またも完璧な微笑みに戻ってしまった杏香の表情が、日下部に向いた。
日下部は立ち止まって振り返ったまま、負けじとニコリと微笑んだ。
「俺は医者です。この腕1つあればいい。それに今は、最愛の唯一の宝もこの手にある。あの人が築いたものにも、あの人の金にも興味はない」
「そう…」
「まぁ、けれど、味方でもない。俺に言えることはそれだけです」
以上、ときっぱり言葉を切って、日下部はスッと踵を返した。
ただ黙って大人たちのやり取りを聞いていた将平の視線が、ずっと背中に向かってきているのを感じながら、日下部は振り返ることなく、バルコニーを出て行った。
ともだちにシェアしよう!