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第202話

そのまま真っ直ぐ帰る気にならなかった日下部は、車を近くのパーキングに移動させ、以前よく足を運んだことのあるバーを訪れた。 店内は照明がしぼられ、ほどよく静かな居心地のいい空気が黙っている。 日下部はカウンターのスツールに腰を掛け、マスターに微笑んで見せた。 「軽く食べられるものと、マティーニを」 スッと軽く頷いたマスターは、すぐに軽食とカクテルを用意してくれた。 「今夜はお1人なのですね」 珍しい、と微笑むマスターは、以前の日下部が、取っ替え引っ替え毎回違う女を連れてきていたことを知っていた。 「ふふ、そろそろ落ち着く気になりましてね」 カクテルグラスに手をつけながら、日下部は妖艶に笑った。 「それはそれは」 「ん。変わってない」 シンプルゆえに、バーテンの技量によって味を変えるカクテルが変わりないことに微笑みながら、日下部はユラリとグラスを回した。 「けれど俺はこの先変わっていくのかな…」 ポツリと独りごちる日下部の声に、マスターは手元のグラスをゆるやかに磨いていた。 「変化を恐れはしないけれど、変容は少し怖い」 少し辛口のカクテルが喉を通っていくのを感じながら、日下部は静かに目を伏せた。 「俺がこの手で守りたいと思うものを、俺がこの手で翳らせてはしまいかと…以前ならわずかも考えることのなかった畏れに、ときどきどうしようもなく震えてくる」 「さようでございますか」 「彼女の真っ直ぐな、無償の愛が怖かった。俺は…同じ言葉を言えるけれども、きっと同じ言葉を奪おうともする…」 山岡のためにすべてを賭けて生きられる。けれどそれと同じくらい、山岡に自分のために生きて欲しいと望んでしまうとわかる日下部は、その想いの重さと強さを自嘲した。 「束縛などは、1番嫌うことだったのに」 気づけばそれを疎んでいた自分が、誰より1番、山岡を絡め取ろうとしていた。 腕時計のプレゼントなど、その最たるものだ。 「人は、常に成長という名の変化を続けるもの。畏れることなどありません」 「成長、か…」 静かにカクテルを飲み干して、日下部はふわりと微笑んだ。 「今度連れてくるよ。とびきりの美人なんだ」 ふふ、と悪戯っぽく微笑んだ日下部に、マスターの目が優しく緩んだ。 「楽しみにお待ちしております」 「ん」 軽いアイコンタクトで、日下部のチェックの意思がマスターには伝わる。 さりげなく出された明細表に合わせて、端数を繰り上げた札を置く。 「お釣りはいらない。ごちそうさま」 ニコリと微笑んで、日下部は気分良く店を出て行った。     * 車を置き去りにし、捕まえたタクシーでマンションへ帰った。 まだ日付けを越える前だったが、山岡は寝室で1人、スヤスヤと眠っていた。 「泰佳…」 そっと触れた手を、軽く持ち上げる。 深く眠っているのか、山岡が起きる気配はない。 「俺はおまえのために…いや、おまえと共に、生きていきたい…」 そっと取り上げた山岡の手の甲に、日下部は優しい優しいキスをした。 「明日、あの人に会ってくる。必ず守るから。おまえを決して手放しはしない」 誓いのように、静かに囁いた日下部は、そっと山岡の手を布団の中にしまい、シャワーを浴びるため、寝室を出て行った。

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