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第205話
コンコン。
「失礼いたします」
不意に、ノックの後に続いて、秘書がコーヒーを2つ持って室内に入ってきた。
テーブルに出されたコーヒーを、日下部は黙って見つめる。
「あぁ、ありがとう」
ゆったりと執務机の方から戻ってきた父が、秘書に微笑んで日下部の向かいに再び腰を下ろした。
「失礼いたします」
コーヒーを出すだけ出した秘書は、そのまま静かに退室していく。
パタンと扉が閉まったのを見て、父がヒラヒラと机から持ってきた封筒を掲げて見せた。
「なんだと思う?」
ニヤリと笑う父の表情から、どうせろくでもないものだと知れる。
ジロリと封筒を睨んだ日下部に、父は楽しげに笑った。
「まぁ一服しよう」
封筒の中身を明かさず、父は出されたコーヒーカップを手に取った。
「気になるか?」
封筒から目を逸らさない日下部に挑発するように笑って、父はコーヒーを飲む。
「……」
日下部はその父に対抗するように、無理やり封筒から目を外して、出されたコーヒーカップに手を伸ばした。
(切り札、か…。一体何が)
父の持ち出した封筒が気になりながらも、日下部はなんでもない振りをしてコーヒーを飲んだ。
その瞬間、舌にコーヒーのものではない苦味を感じた気がして、日下部は油断した自分を呪った。
「まさか眠剤…」
クソッ、と思ったときにはもう遅い。
コーヒーの苦味以上に感じた薬の味に、その強力性と量を察する。
飲み干してこそいないが、すでに効き目が回ってしまったことは消しようがない事実だ。
「へぇ?わかるの?普通気づかないと思うけど」
どんな舌をしているの、と笑う父に、日下部の憎しみに近い視線が向いた。
「何を使った…」
「さぁてね」
「くっ、ラボナか…。素人がっ…」
急激に襲い来る眠気に抵抗しながら、日下部はギュッと右手で左手の甲を抓って、父を睨み上げた。
「ふふ、さすがドクター」
勝ち誇ったように笑う父の声が、水を通したように不確かに歪む。
「こんなもの…どうやって手に入れ…」
その強力性と強い副作用ゆえ、簡単に処方される薬ではない。
しかも摂取量を間違えれば、呼吸が止まり、死ぬことすらある薬だ。
「量…」
「大丈夫。薬の知識に関しては、あれがね」
あれ、と言って秘書を表す父に、日下部の目はどんどんと重くなっていった。
「犯罪…」
「立証されなければ、そうは呼ばれない。ほら、気になっていたんだろう?」
バサリと投げ寄越された封筒から、パラリと数枚の写真が飛び出した。
「なっ…」
ぼやけていく視界の向こうで、日下部はその写真に映ったものを目に捉えた。
「山岡…?」
1人は、日下部の最愛のパートナー。
そうして、もう1人見知らぬ男。
そこには2人が連れ添って、ホテルの中へ入って行こうとしている姿が映っていた。
「どういう…」
山岡は肩を組まれている。
山岡も男の腰に手を回している。
山岡が指差す先にあるのはいわゆるラブホテル。
嫌がっている素振りはなく、薄い微笑さえ浮かべている様子で、多分、自らの意思で足を進めている。
「おまえは真剣だと?でも相手はどうなんだ?」
「っ…こんな、の、なにかの、間違い…」
「おまえの本気に対して、相手は随分と不誠実なようじゃないか。目を覚ませ」
ハッと馬鹿にしたように笑う父の声が遠ざかる。
「おまえ以外にも、ホテルに行くような相手がいる男に本気など、おまえが間違っているんだよ」
諦めろ、別れろ、と言う父の声が、ゆっくりと掠れていく。
「ち、がう…」
間違っているのはこの写真だ、と言いたい日下部だけれど、もう睡魔に呑まれた口が動かない。
「今日の報告によると、この男とおまえのお相手は、今頃楽しく街でデートをしているそうだ」
クックッと笑う父の声は薄く細く遠ざかった。
(こんなの、罠だ…。山岡が、俺を裏切ることなど…。俺は、信じて…)
必死で回す思考も、とうとう薬の力に呑まれ、日下部は抵抗虚しく、ストンと眠りの中に落っこちた。
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