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第207話
日下部は、ゆるりと意識が浮上する感覚に、小さく頭を振った。
クラクラと感じる目眩を振り払い、ゆっくりと自分が置かれている状況を見回す。
「ホテル…?」
どうやら日下部が寝かされていたのはベッドで、ここは見た感じどこかのビジネスホテルの一室のようだ。
「くっ…そ」
身を起こそうと動かした手に、強い抵抗を感じた。
「ご丁寧に縛り上げてくれているわけね」
後ろに回されて動かせない手に、日下部はいっそ笑いが込み上げて来た。
「拉致監禁かよ。やることが大きいね…」
息子の交際に反対した挙句、別れろと迫り、薬まで使ってこんな状況にしてくれる親がいるとは、と、もう日下部は笑うしかない。
クスクス笑ってしまっていたら、不意に部屋の出入り口のドアが外側から開いた。
「気でも狂ったか?」
ゆったりと嫌味な笑みを浮かべ入ってきたのは、言わずと知れた父親だ。
「本当、笑える。あなたは俺に、わずかの興味もないくせに」
クスクスと笑い続ける日下部に、父は薄く目を細めて近づいてきた。
「おまえへの興味なら、世間が過ぎるほどに持ってくれているだろう?大企業センリのトップの1人息子、日下部千洋」
フン、と冷やかにフルネームを呼ぶ父から、日下部は呆れたように目を逸らした。
「だから、その興味の対象が、男同士で交際しているなどと知れた日には、あなたの評判に傷がつく?」
馬鹿馬鹿しい、と吐き捨てる日下部に、父はゆっくりと首を振った。
「もう子供じゃないんだ、それだけではないことくらい、おまえにも分かるだろう?」
それこそ馬鹿にするように言ってくる父に、日下部は大きな溜息をついた。
「それは、俺の知ったことではない」
父が言うものが何のことかくらいは、確かに日下部にも分かっていた。
分かっていたけれど、認める気はない。
「それが通ると本気で考えるほど、馬鹿でも子供でもないはずだ」
冷たく言い切る父に、日下部はニコリと綺麗な笑みを浮かべた。
「とりあえず、これを解いてくれない?これでも外科医なもんでね。手は大事な商売道具なんだよね」
後ろ手に束ねられた両手を示す日下部に、父は緩く首を振った。
「私は老いた。おまえに抵抗されたらもう敵わないことくらいは承知しているんだ」
「……クソ親父」
「そうだな。あの男と別れると言うのなら、解いてやってもいいぞ。無事にも帰してやる」
ふっと笑う父親の言葉は、裏を返せばイエスと言うまで解放しない、と言う意味を持っている。
視線が本気だと語る父に、日下部は笑顔のまま首を振った。
「断る」
ピシリと揺るがない日下部の声に、父が深く溜息をついた。
「強情なのは誰に似たのやら。まぁせいぜい抵抗しろ。無駄なことだがな」
フッと冷やかに言い切る父に、日下部は強気な笑みを絶やさなかった。
「おまえは必ずあの男と別れることになる。そして医者ごっこももうお終いだ」
こちらも強気に笑う父と、日下部の視線が絡まり、バチバチと火花を散らした。
「私は出かける。代わりに秘書を寄越そう。あいつは武道も達人級だ。くれぐれも馬鹿な考えは起こすなよ」
どうせ敵いっこないが、と笑って、父は部屋を出て行った。
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