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第210話

(屈服するほかないのか…?) 大の大人が、こんなところで粗相をするなど、どれほどの屈辱か。 守りたいプライドと、人としての尊厳を奪われることへの恐怖が、山岡への想いを揺らがせる。 「あぁでも、あいつは迷わずに俺だけを真っ直ぐに選んでくれたな…」 ふと、いつだったか、山岡が1度、日下部との別れを覚悟した日のことを思い出した。 見知らぬ男に抱かれようとしてまで、日下部への想いだけを真っ直ぐ守ろうとした山岡は、他のどんな屈辱にも耐える気だったな、と思う。 利き手を守るため、ひいては日下部への愛を貫くため、山岡は…。 「俺も負けられないか…」 どれほどの屈辱にまみれても、山岡への愛を貫くことのほうがずっと尊い。 ちょっと生理現象に耐え切れなくなるくらいなんだ。 そんなもの、山岡を自ら手放すことに比べたら、きっと屁でもない。 「俺は別れない。一生山岡と共に行く」 静かに呟いた日下部の声は、秘書にも届いたのだろう。 ピクリと空気が震えた気配がした。 「俺の覚悟も、生半可じゃないものでね…。漏らそうが、他のどんな屈辱や酷い目に遭わされようが、必ずここを出て、俺は山岡の元に帰る」 俺は揺らがない。 俺たちは、負けない。 日下部は、自分と、そして自分の選んだ最愛のパートナーを信じることを選んだ。 「あなたはとても社長に似ている」 「はっ。何を…」 「似すぎるがゆえ、近く。似すぎるがゆえ、遠ざかる」 まるで磁石の同極だ、と溜息をつく秘書に、日下部は意味がわからずに首を傾げた。 と、そこに、コンコンとノックの音が響き渡った。 それは、ノックと言うほど可愛いものではなく、ドンドンと激しさを増していった。 「なんだ?騒々しい…」 ダンダンという激しいドアの音に、秘書がさすがに怪訝な顔をした。 「急病人です!誰かっ、誰かいませんかっ?!」 ダンダンと手当たり次第ドアを叩いているような音と共に、悲痛な叫び声がした。 日下部の肩がピクリと震える。 「開けろ」 「駄目です」 「聞こえただろう?病人だ!」 ベッドに身を起こし、怒鳴る日下部にも、秘書は躊躇した。 「誰かいませんかっ?助けてくださいっ、誰かぁぁ」 完全にパニックを起こしているような叫びに、日下部は声を1段低くした。 「開けろ」 「ですが…」 「チェーンをかけたままでもいい!落ち着くようアドバイスするだけでいい!」 「っ…」 「頼むから、医者である俺の前で、命を諦めさせないでくれ!」 診せろとは言わない、解けとも言わない、ただ、命を乞う声を無視はするなと叫ぶ日下部に、秘書は渋々ドアを開けた。 「はぁっ、一体どうしま…」 「へへん、かかった」 秘書が、チェーンをかけたままのドアを薄く開いた瞬間、スッと差し込まれた工具が見えた。 「え…?」 秘書が驚いた一瞬の隙をついて、ガチャンと切られたチェーンロック。 そのドアが蹴り飛ばされる勢いで、外へとバァンッと開かれた。 「なっ…」 すぐに飛び込んできた人物と、すぐに応戦態勢を取る秘書。 けれど相手の方が1歩も2歩も早く、秘書に足払いや正拳突きを繰り出し、あっという間に勝ってしまった。

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