213 / 426

第213話

そうして先に日下部のマンションに回ったタクシーから、日下部が下りる。 「ほな、また明日、朝イチに来るで」 「うん、悪いね」 「今後の作戦も必要やし、ちぃのガードも必要やからな」 またいつ拉致られるか分かったものじゃない、と笑う谷野に、日下部も苦笑した。 「強い従兄弟が味方で助かるよ」 複雑な事情も知っていて、敵の癖も分かっていて、山岡のことも知っていて、腕が立つ。そんな最高の味方に、日下部は頼もしそうに笑った。 「ん?後ろ…」 ふと、日下部が下りたタクシーの後ろに、もう1台のタクシーがついた。 途端に緊張した日下部と谷野の視線の先で、そのタクシーの後部ドアが開く。 「追っ手か?」 「どうかな。こんな目立つやり方…あれ?」 「ん?なんや…」 警戒する2人の後ろでタクシーを下りて来たのは、へにゃりと幸せそうに笑っている、私服姿の山岡だった。 「なんや、山岡センセかい」 「山岡?こんな時間まで…」 外は真っ暗、時計の針はすでに夜10時を過ぎている。 「子供やないんやし、休日くらい大目に見いや」 ププ、と笑いながら、谷野は危険はないと察して、タクシーの運転手に声をかけた。 「出してええで」 「とら…っ、チッ、明日話す」 それがそうでもない、と山岡も狙われていることを思いながら、日下部は閉じて行くタクシーのドアの向こうに叫んだ。 なんや~?と、谷野の声が、遠ざかっていくタクシーの中から聞こえた気がしたが、もう見えなくなっていた。 「あっ、ちひろ~」 後ろのタクシーから下りて来た山岡が、エントランス前に立っていた日下部を見つけて、嬉しそうに駆け寄ってきた。 その顔はほんのり赤く、足元が怪しい。 「山岡酔ってる?」 「ん~?ちょっとだよ?ちょっとだけね~」 えへへ、と笑う山岡に、日下部は苦笑しながら頭を撫でた。 「出かけてたの?誰と飲んでたの?」 ゆっくりとエレベーターの方に山岡を誘導しながら、日下部はさりげなく尋ねた。 山岡はちょうどついたエレベーターにヒョイッと乗り込んで、ニコリと笑った。 「うん。たむちゃん」 日下部の知らない名前を呟いて、エレベーターの壁にもたれて目を閉じてしまう山岡。 「おい。こんなところで寝るな…」 慌ててエレベーターに乗り込み、行き先を押した日下部は、山岡の体を支えた。 「くさっ…」 焼肉と煙草、と思った日下部は、嫌な顔を山岡に向けた。 「おい山岡。ちゃんと風呂入ってから寝ろよ?」 「ん~?ちひろぉ、入れて~」 ヘニャリと寄りかかってくる山岡の頬っぺたを抓りながら、日下部が深い溜息をついた。 「おまえね。そういう無意識の痴態で俺を惑わすの、ずるいから」 「ん~?」 「その、たむちゃん、っていうのは、どこの誰だ。おまえの口から、一度もそんな名前を聞いたことがないぞ」 こら、と山岡の頭を日下部がコツンとぶったところで、ちょうどエレベーターが部屋のある階にたどり着く。 「ほら、山岡。とりあえず歩け」 「は~ぃ」 いい子のお返事をして、片手をぴんと上に上げる山岡に苦笑しながら、日下部は山岡を引きずって家に入る。 「で?」 「はぃ?」 「たむちゃん」 「たむちゃん?あ~、おともだち~」 「友人?」 「うん。今日ね、一緒にね、ご飯とか、お店巡りとかしたんだよ?お肉、美味しかったぁ」 えへへ、と笑いながら、無邪気にスマホを操作して、一枚の写メを表示させて見せる山岡に、日下部の纏う空気が凍る。 「この男…」 「ちひろ?」 「ッ、嘘だよな?罠なんだよな…?」 「え?」 「正しくない。正しくない、あいつらの言いぶんなんて、絶対に正しくない」 ギリッと歯を軋ませて、唸るように呟く日下部に、山岡の目がキョトンとなる。 「俺は信じてる。山岡を信じてる。ホテル前の写真なんて合成なんだろう?すべてあいつらが仕組んだことだろう…?」 ギュゥッ、と痛いくらいに強く山岡の腕をつかんだ日下部に、山岡の顔が歪んだ。 「痛っ…ちひろ?」 「っ、なのになんで…。おまえは楽しそうにこの男と食事に行ったと言い、こんなに密着して写真まで撮っているんだ…?」 「ち、ひろ…?」 「信じてる。信じたいのに…っ、こんなの」 ギュゥゥッと爪が食い込むほどに山岡の腕をつかんだ日下部が、迷子になった子供のような頼りない目で、ふらりと山岡を見つめた。 「本当に浮気じゃないか」 ぽつり、と落とされた日下部の声が、じわり、じわりと黒い波紋を広げていった。

ともだちにシェアしよう!