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第226話
売店でパンを買い、どこで食べようかとフラフラ歩いていた山岡は、廊下の先からキョロキョロと何かを探すように歩いてきた男性と出くわした。
「……?」
ピシッとしたスーツ姿でビジネスバッグを持ち、患者というよりは、製薬会社の営業かな、と思うような出で立ちの男性。
けれど製薬会社の社員なら首からかけているはずの名札がない。
「あの、すみません」
時間には早いけど面会かな、と呑気に思いながらすれ違おうとした山岡を、男性がふと呼び止めた。
「はぃ?」
「あの、心エコー検査室というのはどこでしょうか…。教えていただいたのですが、迷ってしまって」
恥ずかしそうにする男性に、山岡は患者さんだったのか、と思いながら、ふわりと微笑んだ。
「1つ上の階ですね。エレベーターの場所は分かりますか?」
「あぁ、そうだったのですか。どおりでないなぁと…。えぇと、エレベーターは…」
困ったように首を傾げる男性に、山岡はニコリと笑った。
「ご案内しましょうか?」
大した手間ではないし、と申し出る山岡に、男性は感謝するように頷いた。
「こちらです」
エレベーターホールにたどり着き、ボタンを押した山岡と、男性が並ぶ。
「本当、広くて大きな病院ですねぇ」
階数表示のランプが動いてくるのを見上げながら、男性がふと呟いた。
「そうですね…」
「先生は何科のお医者さんなんですか?」
不意に尋ねてきた男性に、山岡はそういえば術衣になったままで、白衣の胸ポケットにつけている名札がないことに気がついた。
「外科です」
「外科…」
「えぇ。消化器外科の山岡といいます」
ペコッと頭を下げた山岡に、男性がニコリと笑った。
「じゃぁ日下部先生と同じだ」
ニコリと男性が笑ったところに、ちょうどエレベーターがついた。
「え?」
突然上がった名前に固まった山岡をチラリと見て、男性がスタスタとエレベーターに乗り込んだ。
そうして振り返ってドアを押さえて、固まっている山岡を呼んだ。
「乗りますよね?」
「あ、はぃ…」
ぼんやりしてしまった山岡は、慌ててエレベーターに乗り込んだ。
ボタンを押して、ドアが閉まるのを見る。
2人の他に乗客はいない。
スーッとドアが閉まったところで、不意に男性が山岡の側に身を寄せてきた。
「っ?」
「山岡泰佳さん、ですね?」
わずかに小声になった男性の声に、山岡はビクリと身を竦めた。
「っ…」
密室で、一方的に知っているらしい相手で、マズイ、怖い、という思いが瞬時に湧き上がった。
考えてみれば、ここは大きな総合病院。検査室への案内看板はそこら中にあるし、分かれ目の交差している廊下の天井には、行き先の案内ボードもついている。
何階になんの施設があるのかの案内表示だって、探せばそこらにいくらでもある。
「騙し…」
所属科や名前を尋ねたのもフェイクで、エレベーターには意図的に連れ込まれたのか、と思いながら、そっと離れて行こうとする山岡に、男性はふわりと微笑んだ。
「害を為す気はありません。私は社長の使いです」
狭いエレベーター内、さらに近くに立った男性が、囁くように言った。
「社長?」
心当たりがない、と戸惑う山岡に、男性はフッと吐息を漏らした。
「日下部千里です」
サラリと正体を告げた男性を、山岡は思わずパッと見てしまった。
「日下部先生のお父さんの?」
「はい。秘書をしております」
正体は分かったが、その人が何故、と思う山岡の疑問は、そのまま顔に出ていた。
「ふっ、とても素直な方だ。千里がぜひ、あなたにお会いしたいと」
スッと1枚の紙を差し出してきた男性から、山岡は反射的にそれを受け取っていた。
「そちらのお店で、今夜7時に」
一方的に言うだけ言われたところで、エレベーターが目的の階についた。
スルリと下りる男性につられて、山岡もエレベーターを出た。
「ではお伝えいたしました。ご案内ありがとうございました」
ペコリと丁寧にお辞儀をした男性は、迷いない足取りで、心エコー室とは全く違う方向に歩いて行った。
その後ろ姿が、廊下の先に消えるまで、山岡はぼんやりとその場から見送ってしまった。
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