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第237話

「この私を負かすか?」 「……」 「いや、きみはまだまだ甘い」 「日下部さん…」 「ふん。まったくその通りだよ。先日の健診で、病気が見つかった」 吐き捨てるように言い放った千里の言葉を、山岡は真摯な目をして受け止めた。 「日下部先生はそのこと…」 「知らないよ。言っていない」 ハァッと諦めたように力なく微笑んだ千里を、山岡は静かに見つめた。 「言わないんですか…?」 「あぁ。言うつもりはない」 「っ、ど、うして…」 「それは…」 ふと、何かを考えるように言葉を切って中空を見据えた千里が、ゆっくりとその頬に笑みを浮かべた。 「きみに教える必要はない」 ククッと笑う千里が何を思い何を考えているのか、山岡は切ないほどにわかってしまった。 (心配を、かけたくないんだ…。日下部先生が医者だから余計に。それと、怖がって、る?死ぬことをじゃない、この人は…) 「言わないのに。日下部先生は絶対に、ざまあみろなんて思わないっ…」 どこまでボタンを掛け違えれば気が済むのだろうかと山岡は思った。 日下部の父じゃない、大企業の社長でもない、自分を排除しようとする敵でもない。 病人として、ただの1患者として相手を見る山岡は、全てをきちんと見通した。 「きみにはわからないよ」 フッと馬鹿にしたように笑う千里に、山岡は何の言葉も通じることはないのだと気づいた。 (説得なんか無理だ。谷野先生が言った通りだ。日下部先生もこの人も、似すぎている…) 悔しさに唇を噛む山岡を見て、ふと千里が動いた。 「ますますきみをここから帰すわけには行かなくなったね」 クイッと、入り口付近に控えていた秘書に顎をしゃくった千里に、秘書が素早く山岡に近づいた。 どこに隠し持っていたか、いつそれを取り出したのか。 秘書は、スルッと持ち出したロープで、手早く山岡の両手を後ろ手に縛り上げてしまった。 油断していた山岡は、あっさりとその拘束に落ちる。 「っ、なにを…」 「ふっ。元々無事に帰れると思っていたわけでもあるまい。その上、私が病であることを知られたからな。悪いが我々の管理下に置かせてもらう」 「どうしてそんな…」 「千洋への揺さぶりと、世間への口止めさ。病のことを外部にリークされてみろ。社内に走る動揺が目に見える。関連会社の動きも、私の後釜を狙う野心家たちの行動も。ましてやマスコミにでも漏れてみろ。経済界に何が起こる?ただの医者にはわからないだろうがね。とても大変なことになるのだよ」 冷酷非情な経営者の顔をして傲慢に笑う千里に、ビクリと身動きをした山岡は、後ろに拘束された手がギリギリと痛んで顔を歪めた。 「っ…逃げないから、解いてください…」 ギュッと眉間に皺を寄せて呟く山岡に、千里は冷たい目を向けた。 「駄目だ」 「お願いします…。手は、手だけは…」 「ふん」 「ではせめて前に縛り直してください…。後ろでは肩が…血行も…お願いですから」 すでにジリジリと痺れ始めた指先に、山岡は恐怖を感じながら必死に願った。 「っ…ふ」 ふと、後ろにいた秘書が、小さな笑い声を漏らした。 「なんだ」 「いえ、申し訳ありません。千洋さんと、同じことを言うものですから」 つい思い出し笑いを、と呟いた秘書に、千里の眉がひそめられた。 「それの何が可笑しい」 「いえ…。医者とは、そうなのか、と」 スッとわずかに身を引いて頭を下げた秘書を、山岡はふと振り返ってしまった。 「何より1番に、手を守ろうとするのですね」 「外科医ですから…」 日下部先生も、と言外に呟いた山岡の言葉は、秘書にはもちろん、千里にもきっと届いたのだろう。 「認めないよ…」 ポツリと囁かれた千里の言葉の意味は、山岡には正反対に聞こえた。

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