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第238話
「さてと。その手では食事もできないし、どうしたものかな」
フッと笑う千里に、山岡は黙って考えを巡らせていた。
「とりあえず場所を移動しようか。どうせきみも、この場所を誰にも言わずに来たわけではあるまい?」
チラリと視線を向けてくる千里から、山岡はそっと視線を外した。
「日下部先生には言ってません」
「では虎男には?」
「っ…」
千里の口から出た名前に、山岡は思わずピクリと反応してしまった。
実は谷野が共犯になると言ってくれたあと、別れる前に、念のためと言われ、秘書にもらった紙を渡してあったのだ。
「ふん。あの虎男が、千洋に隠し通せるわけがない」
2人の力関係をよくわかっている千里が目を細め、山岡も少しだけ納得した。
「まったく、厄介な甥っ子だ。本来ならあの子もうちの経営に顔を連ねるはずが。千洋に盲目的に憧れ、千洋を真似て医者にまでなってしまって」
「え…」
「挙げ句、今もひたすら千洋を追いかけ、千洋に肩入れし、私の邪魔をする」
伊達に頭がよく、武道も身につけているから参ったものだ、と苦笑する千里に、山岡はキョトンと顔を上げてしまった。
「知らないわけがないだろう?千洋が勤める病院に好条件で空きが出るのを待ち構えていて、チャンスができた途端飛びついて転勤してくるようなやつだ」
「それで…」
「そろそろその虎男クンが、千洋にきみの行き先を吐かされて、ここへ乗り込んでくる頃じゃないのか?」
ククッと笑う千里は、それをどこか楽しんでいるようだった。
「まぁ、政治家の密会にも使われるようなプライバシーもセキュリティーも万全の料亭だ。一般人が容易く入れはしないし、女将にも念のため、千洋を入れるなと頼んではあるものの…」
「っ…」
「あのちぃとらコンビが組むと、なにをしでかすかわからないからな」
昔から、と笑う千里の目は、柔らかい父の目をしていた。
「先日もうちのホテルを1つ、滅茶苦茶にしてくれた」
ははっと笑いながら、千里がゆっくりと立ち上がった。
「行くぞ」
スッと身を翻した千里を見て、静かに秘書が動いた。
後ろ手に縛られたままの山岡の腕を持ち上げて立たせ、部屋を出て行く千里に続く。
「っ…」
思いの他強い秘書の力に逆らえず、山岡は引きずられるように2人に従いついていくしかなかった。
(あ~、危なくなったら逃げろって言われたけど、無理そうです。ごめんなさい、谷野先生…)
危害を加えられる予感はないものの、縛られて拉致されていると言われればそういう状況だ。
ヨロヨロと秘書に連れられて行きながら、山岡はきっとキレるだろう日下部の顔を想像した。
(う…。もし帰ることができたら…)
死ぬほど叱られるな、と身を竦めながら、山岡は料亭を連れ出され、高級車に押し込まれ、どこかへ連れ去られて行った。
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