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第251話

そうして着替えて医局に戻った山岡は、ソファに座って検査のデーターやらなんやらをのんびり眺めていた。 手術は麻酔科の都合で昼過ぎになるようで、山岡は当直室から持ってきた栄養ゼリーをくわえている。 カチャン。 ふと、まだ昼には早い時間だが、外来が終わったらしい日下部が、医局に入ってきた。 「あ、日下部先生、お疲れ様です」 デスクで勉強をしていた原が、パッと立ち上がってペコンと頭を下げる。 「あぁ…」 まだご機嫌斜めなのか、軽く頷いただけで原に答えた日下部が、スタスタと中まで歩いてきた。 「お疲れ様です…。早いですね」 ソファの側まできた日下部に、ギクリとしながら、山岡は上目遣いでそっと日下部を窺った。 「今日はすいていたからな。それより、これ何?反抗してるの?」 山岡の真ん前まできた日下部が、ジロッと山岡を見下ろし、その口元からゼリーのパックを引ったくった。 「っ…」 「確かに俺、まだ怒っているけど、このやり方はないんじゃない?何?今朝先に1人で出たから、その意趣返しのつもり?」 日下部から見たら、昼食拒否にしか見えないことに気づいて、山岡はハッと目を見開いた。 「違いますっ。一緒に食べるのが嫌なんじゃなくて…」 「じゃぁ何」 「時間あまりないので…」 日下部の手の中でグシャリと潰されたゼリーのパックを見ながら、山岡が困ったように目尻を下げた。 「時間って…まだ昼前だし、今日はオペ午後2番だろ?早くても3時頃じゃない?」 そういえばもう術衣だな、と山岡の姿を見ながら、日下部が首を傾げた。 「その前にアッペが1件入ったんです」 「アッペ?内科から?救急?」 「いえ…ギネです」 「っ!」 「あ、それで、原先生…」 見学か助手…と言いかけた山岡を、日下部の鋭い目が睨んだ。 「できるの?」 「え…?」 「まだそんなソファに座っているようなコンディションでできるのか、って聞いてる」 低く苛立った声を出す日下部に、山岡は顔を赤らめながら俯いた。 やはり自分のデスクについていない理由は日下部にお見通しらしい。 「っ…でき、ますよ…」 ギュッと唇を噛みながら小声を漏らした山岡を、日下部が引きずり立たせた。 「っ…たい…」 グイグイ腕を引かれ、奥のキャビネット前まで連れて行かれた山岡は、歩くたびに布が擦れたお尻の痛みに涙目になった。 「ふっ。本当にできるんだな?」 「はぃ…」 ダンッとキャビネットに手をつき、山岡を囲い込んで顔を寄せた日下部から、山岡がフイと目を逸らした。 「わ~、生壁ドン。先生方、寒い」 プッと笑いながら口を挟んだのは、それまでの山岡と日下部のピリピリした会話の成り行きを見守っていた原だった。 「っ…」 瞬時にギロッと日下部の凶悪な視線が向いて、原が口を閉じる。 かと思いきや、原はヘラリと笑って、山岡に向かってウインクなどして見せた。 「喧嘩なら早く仲直りしてくださいね~」 「はぁっ…きみね」 「喧嘩は、してないです…」 呆れた溜息を漏らす日下部と、困惑気味に苦笑する山岡。 「まぁ、山岡先生がやれるって言うんなら、やれるんだろうけどね」 日下部は、山岡が変なプライドを持っていないことも、自分の力量を見誤らないこともよくわかっている。 「はぃ…」 「俺を前立ちに入れて」 スッとキャビネットから手を離した日下部を、山岡がぼんやり見つめた。 「原先生も術野に入れてもらうといいよ。妊婦のオペはそうないし」 いい?と山岡を振り返る日下部に、山岡はコクリと頷いた。 「オレも原先生を入れる許可もらおうと思ってました」 「ん。で、俺は?」 「もちろん。よろしくお願いします」 ペコリと頭を下げた山岡に、日下部はポイッとゼリーのパックを投げ返した。 反射的に受け取った山岡が苦笑する。 「着替えてくる」 「はぃ。多分12時半過ぎになるかと」 「わかった」 言い置いて医局を出ていく日下部を、山岡はソファに戻りながら見送った。 「なんで険悪な感じなのに、同じオペ入りたがるんですかね」 謎過ぎ、と呟いている原に、山岡は苦笑した。 「日下部先生は医者ですからね…」 「はぁ?」 「医者なんですよね、あんなにも」 「あの、よくわかりません」 ふぅ、と息を吐く山岡に、原が派手に首を傾げていた。 「原先生も着替えなくていいんですか?」 不意に話を変えた山岡に、原がハッとした。 「あ、いや、着替えなきゃ!」 途端にワタワタと立ち上がり、医局を出ていく原を山岡がクスクス笑いながら見送る。 医局内に山岡はポツンと1人になった。 「患者さんのことを1番に考えた結果…だろうな。少しは責任感じてるのもあるかもだけど」 ぽつり、ぽつりと独りごちる山岡が、少しだけ寂しそうに目を細めた。 「やっぱり、このままじゃ駄目だ。医者ごっこなんて言わせたまま逃げちゃ駄目だ…」 スゥッと深く息を吸った山岡は、キッと空中を睨み据えた。 その目には、日下部が向き合わなくてはならない、山岡が立ち向かわなくてはならない相手の顔が浮かぶ。 「まだオレのこと怒ったままなのに、簡単に言えるんだもんな。ふぅ。日下部先生が前立ちじゃ、しっかりやらなくちゃ。少しでもオレの手元がブレたら、取り上げる気だ、あれ…。原先生の手前、そんなみっともないことできないよ…」 ギュッとゼリーのパックを握りながら、山岡はまだ微妙に感じるお尻の痛みを頭から追い出した。 同時に、目の前に浮かんでいた部外者の顔も消し飛ぶ。 スッと立ち上がった山岡の顔は、何の雑念もない医師の顔をしていた。

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