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第255話
医局を出た2人は、日下部の言葉通り、当直室に入って、向かい合っていた。
まだ6時半を回ったあたりで、無人だったのは幸いだ。
ガチャンと鍵をかけた日下部を見て、山岡の身体は自然と強張った。
「あの…」
「ふっ。怯えなくても、何もしないよ」
「……」
薄く笑いながらソファに腰掛けた日下部を、山岡は突っ立ったまま見ている。
日下部は、ふいっとベッドに顎をしゃくって口を開いた。
「座れば?あぁ、それともうつぶせで寝た方が楽?好きにしていいよ?」
クスクス笑う日下部は、わざと山岡に思い知らせるような言葉を選んでいた。
「っ…」
途端にカァッと頬を赤くした山岡が、ギュッと唇を噛んで、ベッドに腰掛ける。
さすがにもうそこまで痛くはないらしく、山岡の表情は特に変わらなかった。
「ふぅん…。俺、昨日さ」
「はぃ…」
「許したわけじゃないって言ったよな?」
スゥッと目を細めて山岡を見つめながら話し出した日下部に、山岡はその視線を受け止めてコクリと頷いた。
「はぃ」
「続き、今してあげてもいいんだけど」
フッと吐息とともにとんでもない台詞が聞こえ、山岡がえっ?と目を見開いて固まった。
「なに?」
「え、いや…だってそんな…」
病院だし、当直室だし、っていうか続きって、とパニックになっているのが丸わかりの表情の山岡を見て、日下部がさすがに苦笑を漏らした。
「だって俺は、やっぱり何がなんでも山岡には約束して欲しいと思ってるから」
「っ…」
「あの人と2度と会って欲しくないし、不用意な接触も避けさせたいわけ」
「……」
「だからやっぱり、約束させるまで…」
叩こうか?と笑う日下部に、山岡は目に涙をためてブンブンと首を振った。
「嫌です…」
まさか日下部が、そんな拷問まがいのことをするとは思ってはいないが、言葉だけでも山岡を怯えさせるには十分だった。
イヤイヤと首を振る山岡を見て、日下部は冷たく微笑んだ顔で、ゆっくりと目を細めた。
「しないよ」
「っ…?」
「するわけない。でも、その代わり、おまえの勝手にもさせない」
「え…?」
「1人でなんて帰らせるつもりはないし、なるべく山岡から目を離さない」
ジッと見つめてくる日下部に、山岡はフラリと目をさまよわせた。
「約束してくれないのなら、俺が強制的に会わせないようにするしかないだろう?無理にでもおまえに身勝手な行動をさせないように監視するしかない」
「っ…」
本気の目をして言う日下部から、山岡はストンと目を逸らした。
「だから、1人で帰らせるなんてもってのほか。もしそれで1人にして拉致られでもしたら目も当てられない。却下だ」
「……」
「寄るところがあるっていうなら、一緒に行く。それで一緒に帰る」
どうせないんだろうけど?と冷笑する日下部に、山岡は諦めたようにため息をついた。
「やっぱり無理でしたよ…」
「なに?」
「いえ…。寄るところは、本当にあるんです。でも…」
言ったら怒るだろうなぁ、と思いながら、山岡はチラリと目を上げて日下部を窺った。
「どこ?」
「っ…」
真相を探るような目を向けてくる日下部に、山岡は秘書に指定された居酒屋の名前を口にした。
「は?夕食かなんか誘われてるの?…まさか田村とかいうやつに会う気じゃ」
あんなにお仕置きしたのに、という日下部に、山岡は首を振った。
「違います」
「じゃぁ、川崎さん?」
山岡の交友関係といったらそれくらいで、思わず口にした日下部に、山岡はフルフルと首を振った。
「1人で行くわけないよな。まさか」
居酒屋という場所柄、いまいちしっくりは来ていなかったが、でも他に考えつく答えがない。
そんな様子を窺わせながら、日下部がジッと山岡を見つめた。
「あの人?」
昨日の今日で性懲りもなく…と舌打ちしそうな勢いで言う日下部にも、山岡は首を左右に振った。
「……」
「違います。日下部さんにも誘われてません。誘われたのは…秘書さんです」
「は?」
「日下部さんの秘書さんと会いに行きます」
キュッと拳を握り締め、顔を上げて真っ直ぐ日下部を見た山岡に、日下部の唇が歪んだ。
「なめてるの?」
「いえ…」
「俺がそれ、はいそうですか、って行かせると思ってるの?」
「いえ…」
怒らせる予感はあった山岡は、日下部が纏った苛立ちのオーラを当然の結果として受け止めた。
「何がしたいの」
怒られたいなら怒ってやる、と言わんばかりに、苛々と立ち上がった日下部を、山岡はジッと見つめた。
「大事にしたいだけです…」
「言っている意味がわからない」
「オレは、千洋が大好きなだけなんです…」
ストン、と山岡もベッドから下り立ち、目の前に立った日下部を見上げた。
「会話、成立してないよな、それ」
ハッと笑い声を上げる日下部の胸元を、山岡がグイッと掴んで自分の方に引き寄せた。
「っ、山岡?」
「駄目と言われても行きますから…」
山岡は、軽く伸び上がって、日下部の驚いた表情を浮かべた顔に、自分の顔を近づけた。
「んっ…」
カプと噛みつく勢いでキスを仕掛けた山岡に、日下部は驚きながらも反射的にその腰を支えていた。
「んぁ…ゃ…」
何が何だかわからないが、恋人からのキスが嫌なわけがない。
日下部は、驚いて離れていこうとした山岡の唇を逃がさず、それどころか逆にもっと深いキスを自ら与え始めた。
「っ…ぁ、はっ…」
思う存分、山岡の口内で暴れ回った日下部の舌が、スッと抜かれていく。
同時に離れていった唇と唇の間に、ツゥッと唾液の糸が引いた。
「ふっ、ぁ…」
焦点がぼやけるほど間近にあった日下部の顔が離れ、トロンとした山岡の目が、くっきりしてきた日下部の顔を見つめた。
「千洋…」
潤んだ瞳でねだるように見つめられ、日下部が諦めたようにため息をついた。
「はぁっ…。俺も行くから」
どこで覚えたんだ、こんな芸当、と腹を立てながらも、日下部は山岡の思いの強さに、今回は折れることにした。
「おまえが上手く言えないことくらいはわかってるよ。仕方ないから、行っていい。ただし、俺もついて行く」
口下手な山岡を、日下部はよく知っている。それが、キスで誤魔化すような真似をしたかったわけではなくて、山岡の精一杯の想いの伝え方なんだということもわかっている。
渋々ながらも許可した日下部に、山岡がホッとしたように身体から力を抜いた。
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