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第259話
日下部の車に乗って、山岡が秘書に言われた居酒屋に着いたのは、ちょうど8時だった。
すでに秘書は来ていて、話が通っていた店員に秘書の待つ個室に案内された。
「あ、の…こんばんは。お待たせしました…」
オズオズと個室に入った山岡は、1人で席についていた秘書を窺った。
「いえ。私も今来たところです」
それが嘘だということはすぐに分かったが、山岡はサラリと流し、そっと後ろを振り返った。
「あの…それで、その…」
オドオドと困っている山岡の様子を見て、秘書はあっさりと状況を察する。
「どうぞ。千洋さんもいらしているのでしょう?」
クスクスと笑った秘書に、山岡は申し訳なさそうに頷いて、日下部は堂々と個室に踏み込んで来た。
「俺の大事なこれに、強力な睡眠薬でも盛られて、拉致などされたらたまりませんからね」
フッと嫌味全開で秘書に顔を見せた日下部に、山岡が困ったような視線を向けた。
「山岡、これ、冗談でも何でもないからな?現に俺、そこのセンリの忠犬に1度やられてるから」
軽蔑するような視線を向けられた秘書だが、全く堪えた様子もなく、ニコリと微笑んだ。
「その節は失礼致しました。副作用や後遺症などは大丈夫でしたか?」
クスクスと平然と笑う秘書に、山岡がギョッとなり、日下部が鬱陶しそうに視線を流した。
「副作用で障害でも出れば、あなたを告発できたものをね、お陰様で」
何ともない、と再び嫌味たっぷりに返した日下部に、秘書はふわりと微笑んだ。
「それは良かった。どうぞ、お座りください」
いつまで立ってるんだ?と言わんばかりに余裕綽々で微笑む秘書に、日下部は嫌そうにしながら、奥の席についた。
「おいで」
山岡には自分の隣の入り口側の席を示し、手招きをする。
6人がけらしいテーブルは、3人だけの今、とても広く感じた。
「お2人とも、お食事は?」
仕事帰りに直接来たと分かっているくせに、とぼけて聞いてくる秘書に苛立ちながら、日下部は目についたメニューを勝手に手に取った。
「ふん、山岡、何食べる?」
ほら、とメニューを開いて見せて来る日下部に、山岡の視線がオロオロと秘書と日下部の間を彷徨う。
「随分と嫌われましたねぇ、私も」
クスクスと笑っている秘書は、日下部の失礼な態度もまったく気にすらしていない様子だった。
「あ、の…」
どうにも居心地の悪い空気に、どうしたものかと困惑した山岡を、日下部はどうやらメニューに迷ったものだと勘違いしたようだった。
「何でも好きなものを選べばいい。どうせそっちの経費だろう?」
いっそ高いものを頼んでしまえ、と子どもみたいな嫌がらせをしようとする日下部に、山岡と秘書が同時に苦笑した。
「そんな、自分の分は自分で…」
「残念ながら、今日は社長に内緒で来ていますのでね。プライベートです」
まぁ奢りますが、と笑っている秘書に、日下部の眉が寄った。
「あなたの独断だと?何を企んで…」
不信感を隠しもせずに秘書を睨んだ日下部は、秘書が綺麗な笑みを浮かべたまま、わずかも表情を揺るがさないことに、言いようのない不安を感じていた。
「あなたがあの人の意向に背くとは思えない…」
忠実な父の僕のくせに、と睨み付ける日下部に、秘書はふわりと微笑んだまま、ゆっくりと目を伏せた。
「っ!…本当、に…?」
何があっても、千里がどんな無茶な要求をしようとも、決してそれに逆らうことがないと思っていた秘書が、独断で今ここにいるという。
この秘書は、千里が白と言えば、黒いものも白と言い切るだろうと思っている日下部は、頭の整理がいまいちできないでいた。
「あ、の…日下部先生…」
ふと、メニューをぼんやりと眺めていた山岡が、2人の間に口を挟んだ。
「ん?どうした?決まった?」
「いえ…。オレはその…」
チラリと日下部を見た後、そっと秘書に視線を移した山岡に、何が言いたいのかを察する2人。
「あぁ、そうでしたね。今日は私、山岡さんとお話をするためにお呼びだてさせていただいたのでした」
「はいはい。俺は邪魔者ね」
ふっと嫌みっぽく笑って、日下部が山岡の前からメニューを取り上げた。
「適当に頼んじゃうぞ?」
「はぃ…すみません」
料理どころじゃないらしい山岡に苦笑して、日下部はメニューを眺め始めた。
それでももちろん意識のほとんどは山岡と秘書に向かっているし、耳は完全に2人の会話に傾いていた。
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