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第260話
「あの…」
「はい。単刀直入に言わせていただきます。山岡さん…いえ、山岡先生には、例の件で、社長を説得していただきたいとお願いに参りました」
ニコリと内心の窺えない笑みを浮かべてサラリと言い放った秘書に、山岡の目が丸くなった。
「ちょっ…」
『例の件』が何を指すのかは、秘書が山岡を先生と呼んだ時点で察せられた。
けれど千里は確か、日下部に黙っていて欲しいと、そう要求していたような気がする。
日下部が同席しているこの場での秘書の発言に、山岡は困惑してオロオロと目を彷徨わせた。
「あの、その話は…」
「ええ、社長のご意向に逆らっているのは承知だと、言いましたよね?それでも私は、どうしてもあの方を失いたくはないのです」
「っ…」
「私は今までずっと、社長のためだけに生きて参りました。社長が望むことは全て叶え、社長を全身全霊でサポートして参りました」
「……」
「それは今も、これからも変わりません」
静かに語り始めた秘書の話に、山岡はなんとなく、この人が何を言いたいのかが分かった気がした。
「あの…」
「はい。ですから、社長がすでに諦めてしまおうとしているものを、私はそのまま見過ごすことはできない」
ギュッと眉を寄せて、初めて辛そうな表情を秘書が見せた。
「っ…」
「まだ、諦めるには早すぎます…何もかも」
スッと表情を凪に戻して告げた秘書に、山岡はその言葉の意味を正確に理解して頷いた。
「命も未来も、希望も…和解も?」
「さすが、察しがよろしいようで」
クスッと笑った秘書に、山岡の目が小さく揺れた。
「同意…できる部分はあります。けれど、頷けないところも」
「わかっております。あなたはきっと、千洋さんは医者でいるべきだと思っているのですね」
「いるべき…というか、日下部先生は医師なので…」
それは、誤魔化しようもない事実だ、と揺らがず告げる山岡に、秘書の目がスゥッと細くなった。
「私も、この点は引くつもりはありません。ですが…」
「っ…」
「時間がないと焦り、半ば無理矢理こちらにお迎えしたところで、それが本当に社長の望んでいる形なのか、というと、疑問にしか思えません」
「っ!」
「私はできることならば、掛け違えてしまったボタンを直し、その上できちんと望みを叶えていただきたいと思っています」
「それは…」
「ええ。そのためにはまず、ないと思い込んでいらっしゃる時間をきちんと取り戻すことが先決かと」
静かに紡がれる秘書の言葉は、山岡の中にすんなりと落ちてきた。
「そうしてきちんと日下部先生と向き合って…その後の結果が、もしもあなたの思い通りのものではなくても…?」
「はい。無事に未来の時間を手に入れた、その後、お2人が出される結論がどんなものであれ、異を唱えるつもりはありません」
ジッと互いに揺らがぬ視線を向け合って頷く山岡と秘書。
自分の名が何度か上がっていることを気にしながら、日下部は黙って2人のやりとりを聞いていた。
「今のままでは、強引な手段を取らざるを得ない…。けれど私は…」
「はぃ…」
「どうかお願いします。社長のときを、もしかするとあなたならば」
スッと姿勢を正して、丁寧に頭を下げた秘書に、山岡がギョッとしてあわあわと慌てた。
「止めてくださいっ…そんな、頭っ…」
下げなくてもっ、と慌てながらも、山岡はふと、秘書の本心に気づいてしまった。
(この人…本当は…本当に日下部さんを大事に想っているんだ…)
スゥッと目を細めた山岡の前で、秘書がゆっくりと頭を上げた。
ふと、そんなやりとりを静かに聞いていた日下部が、そっと山岡の肩を抱いた。
「なぁ…。2人して、何の話?」
「え…?」
「時間がないとか…失いたくないとか…。山岡に依頼するって、さ。あの人、病気なわけ?死ぬの?」
それまで黙っていた日下部が、山岡と秘書の話から、ピタリと真実を引き当てた。
「……」
「ご推察にお任せします」
ウッと言葉に詰まった山岡と、秘書の人を食ったような発言から、それが肯定だと察する日下部。
けれど、微妙に傾げた首と、不審そうな目が、山岡と秘書に向く。
「本当に?いや、嘘だろう?」
「……」
「はっ、そうか。あの人が余命いくばくもないような話をでっち上げて、俺の同情を引いて後継の座に無理矢理つかせる魂胆か」
「っ、日下部先生…っ」
「山岡は信じやすいからな。山岡に吹き込んで、信憑性を増そうって魂胆?相変わらずやり方が汚いね」
ハッと馬鹿にしたように笑う日下部に、山岡の顔がクシャリと歪んだ。
「嘘では…ないと思います」
「すっかり騙されて。さすが、山岡のことを調査しただけはあるな。命を盾にすれば、そりゃ山岡はそっち寄りになるだろう」
「っ、ちがっ…日下部先生っ…」
「ふん、話はここまでだ。帰るぞ、山岡」
途端に不機嫌になった日下部が、グイッと山岡の腕を引いて、立ち上がった。
「あぁ、1つ言っておくけど。俺はあの人が病気だろうと余命幾ばくもなかろうと、同情なんかしないし、あなたたちの思い通りになるつもりもないから」
「っ…」
「何をしても無駄だよ。あの人が病気になろうが死んでしまおうが…俺の心はそんなことでは動かない」
ふっと冷たく笑って、日下部はスタスタと個室を出て行く。
その日下部に腕を引かれている山岡も、ヨロヨロと引きずられていってしまう。
「ちょっ…あのっ…」
まだ話が、と手を伸ばす山岡を見ながら、秘書は苦笑しながらゆっくりと席を立った。
「いつまでも子どもですね…」
ハァッと呆れたように笑って、秘書もまた個室を出て会計に向かった。
入り口付近でなんとか踏ん張っているらしい山岡のもがく声が聞こえている。
「さて、どうしたものか。山岡先生にはぜひ、社長の説得を…」
してもらわなければならないし、と思いながら、秘書はこのまま逃がしてしまえば、日下部が2度と会えないように妨害してくることは必至だと思っている。
今、どうにかして約束を取り付けなくては、と考えながら、いつの間にか店を出てしまった2人を追って、秘書も店から足を踏み出した。
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