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第262話

「な、んで…」 「社長の、大事な…ご子息ですから…」 喘ぐような呼吸をもらしながら、グラグラと自然に頭が揺れてしまうような様子で秘書が微笑んだ。 「おいっ!くそっ…意識っ、手放すなよっ?すぐ助ける…おい!」 掴んだ手首に脈が触れることに多少は安心しながらも、日下部は必死で秘書に呼びかけ続けた。 「手伝います!」 「とにかくここから出してあげましょう」 壁と車の間から、秘書の身体を救出すべく、何人かの通行人が手を貸してくれた。 せーのでわずかに動いた車の前から、ズルリと秘書の身体が引きずり出される。 「っ…い、たい…」 そっと抱き止めた日下部にもたれながら、苦しげな声をもらした秘書がゲエゲエ吐いた。 「内臓いってるな…。痛いの、どの辺だ?」 まだ意識が残っていることにホッとしながら、日下部はそっと秘書を地面に寝かす。 「お、なか…?」 この辺?と曖昧に、震える手を持ち上げた秘書が示した場所を確認しつつ、日下部はガバッと秘書の服をまくり上げた。 「左上腹部…っ!」 胸の上までまくった服の下から、赤黒く腫れ上がった肌が確認できた。 ギクリとしながらそっと触れたお腹。腹筋がカチカチに固くなっている。 「脾臓か…」 「っぁ…め、まい?き、もち、わる…っ、目が…」 かすむ、と囁く秘書に、日下部が必死で大声を上げた。 「出血のせいだ。大丈夫、すぐ救急車が来るから。しっかりしろ、大丈夫だ!」 ギュッと手を握って励ましながら、日下部はふと周囲の様子も見回した。 「はっ、はっ、はっ…AEDまだです?」 少し離れた場所にいる山岡が、倒れた男性の上に覆い被さるように、胸骨圧迫している姿が見えた。 誰かにAEDを探しに行かせたのか、1人で心臓マッサージを続けているようだ。 「っ…心肺停止か…。俺も、手伝いに行かなきゃ…」 握っている秘書の手を見下ろしながら、日下部の目が困惑に揺れた。 「い、って…く、ださ…。あ、なた…は、医師…で、しょ、う…?」 「っ…」 知人として、秘書の側についていないと、という気持ちがある。 けれど医師としては、秘書の症状に対して、励まし続ける以外にこの場でできる処置はない。 向こうにはまだ、医師の手を必要とする負傷者がいる。 「っ、悪いっ!」 握っていた手をスルリと離した日下部が、秘書の身体から目を引き剥がし、パッと身を翻す。 「誰かっ…この人に声をかけ続けてくださいっ。様子が変わったらすぐに教えて…お願いしますっ」 日下部の呼び声に、パッと手を上げた救助を手伝っていた男の人が、大きく頷いて、そこにしゃがみ込んだのが見えた。 目の端でそれだけ確認して、日下部はすぐに山岡の側に向かう。 グッ、グッと息を上げながら心臓マッサージをしている山岡の向かいに膝をつき、その顔を覗き込んだ。 「代わる!」 「っ…心停止…からっ、2分、10秒に、なり、ますっ…」 「くそっ。厳しい」 ギリッと奥歯を噛み締めた日下部たちの元に、バタバタと赤いバッグを持った青年が駆けてきた。 「AED持ってきましたっ…」 ハァハァと息を上げている青年の声にパッと顔を上げた2人が、同時に口を開く。 「使えますか?」 「すぐ開けて」 被ってしまった声に2人して目を見合わせたあと、また同時に青年を見上げた。 「あ、はい、えっと…一応、医大の2年生です。お手伝いさせてください」 「医大生?心強い。山岡、俺よさそうだな」 「えぇ、助かり、ます…日下部、せんせ…運転手、さんの、ほうに…」 残りの負傷者、と規則正しく圧迫を続けながら、山岡がチラリと凹んだ車の方に目を向けた。 「わかった。診てくる」 「お願いします。…パッド出せました?」 「あ、はい」 山岡のペアは医大生を名乗る青年に任せ、日下部は車の方にパッと身を翻した。 その目に迷いはまったくない。 「くそ、開かないし…」 運転席に人影が見えて、ドアを開けようと手を伸ばした日下部は、ひしゃげてしまった車のドアが開かなくてため息をついた。 「向こう側は…」 仕方なく助手席側に回った日下部は、なんとかそちらのドアが開いて、ホッとしながら車の中に上半身を突っ込んだ。 「大丈夫ですか?聞こえますか?」 トントンと運転手の肩を叩きながら声を放つ日下部に、くぐもったうめき声が返った。 「よし、意識はあるな…。どこか痛みますか?」 パッと手を取って、脈を確認しながら全身に目を走らせる日下部に、やはりぼやけたうめき声が返った。 「…痛かったら、手を軽く握ってください」 話せないのか、と判断した日下部が、握手をするように手を握り直す。 運転手の指先にキュッと力が入ったのを感じて、日下部は1つ頷いた。 「頭ですか?」 「……」 「首…お腹、背中…」 手に力が加わるたびに、言った箇所を記憶しながら、日下部はそっとシートベルトを外した。 シュルルッとシートベルトが勢いよく収納される。 助手席に乗り込む勢いで身体を突っ込んだ日下部は、そっと運転手の服に手をかけた。 「失礼します、少しまくりますね」 「……」 キュッと力の入った手は肯定の意か。 ズボンから服の裾を引き出し、グイッとまくり上げた日下部は、ちょうどシートベルトが当たる位置に見事についた痣を診て頷いた。 「ん…」 症状を確認しかけたところに、バタバタと新たな足音が聞こえてきた。

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