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第264話
秘書が乗せられた救急車に一緒に乗り込んだ日下部は、手にした携帯電話の画面を見下ろした。
「っ…」
通話ボタンを押そうかどうしようかと悩んだのは一瞬だった。
気づいたときには押されていた発信ボタン。
相手が自分の番号を見て、出るか出ないかは、一か八かだった。
「……」
無機質な呼び出し音が続く。
チラリと目を向けた秘書は、意識が朦朧とし始めているのだろう。薄く開いた目は焦点を結んでいない。
(出ろ。出ろよ!)
続く呼び出し音に日下部の苛立ちが募る。
「っ…?」
そのとき、フッ、と途切れた呼び出し音の後に一瞬の間が空き、待っていたはずの、本当だったら決して聞きたくはない声が聞こえてきた。
『千洋か?なんだ』
余裕ぶった傲慢な声。
何度聞いても嫌な気持ちにしかならない、父の声に、日下部は余計な感情を出すまいと深呼吸を1つして、静かに口を開いた。
「あなたの忠犬が事故に遭った。今、病院に搬送中の救急車の中」
淀みなくひと息で言った日下部に、千里の呼吸がわずかに乱れたのが聞こえた。
『何故』
端的な2文字。すべてをその一言に凝縮して返した千里に、日下部は思わず鼻を鳴らしてしまった。
「俺が俺の携帯であなたに連絡しているのは、この人のプライベート用であろう携帯が、事故の衝撃で壊れていたから」
『ふむ』
「仕事用だろう方は無事だったけど、ロックが掛かってた」
『っ!それはつまり…』
ロック解除が出来ないことを意味している。
その理由は、千里にはたやすく考えついた。
「うん。聞ける状態じゃない。だからあなたの方から、この人の家族に連絡してやって。搬送先は俺の病院だから」
千里が秘書の家族の連絡先を知っていること前提で話す日下部に、千里の呼吸が乱れて揺れた。
「で、1番知りたい何故に答えてあげる。この人は今日、俺と山岡と会っていて、会っていた店を出た先で、事故に巻き込まれた」
『っ…』
そこまで言ったところで、日下部は1度言葉を区切って、震える唇を落ち着かせるように、1つ息を吸い、ゆっくりと瞬きをした。
「歩道に突っ込んできた車から…俺に向かってきた車から、俺を庇って轢かれた」
グッと腹に力を入れて、声が震えないようにと一気に言った日下部に、千里のヒュッと息を飲む音が聞こえた。
「先生!血圧が…」
ふと、通話中の日下部に、救急隊員が声をかけてきた。
目だけをそちらに向けた日下部は、血圧計の数値がかなり低い数字を表示しているのを見て通話口を手で覆った。
「後どれくらいで着きますか?」
カーテンが引かれて外が見えない車内から現在地はわからず、日下部は救急隊員を振り返る。
「もう後1分ほどです」
「1分…。悪いけど、連絡の件よろしく。切るから」
秘書の顔に目を走らせながら、日下部は電話口から手を離し、千里に呟いた。
『い、命に別状は…』
「まだなんとも。手、あけたいから切るよ」
『おいっ、待っ…』
まだ何か言いたそうな千里の叫びが聞こえる中、日下部は遠慮なく通話の終了ボタンを押した。
「なぁ、聞こえるか?もうすぐ病院に着くからな。助けるから。聞けよ、必ず助けるからな」
秘書の耳元に顔を近づけ、日下部は繰り返し話しかけた。
秘書の薄っすらと開いていた目が、緩やかに瞬きをする。
けれどもそれはとても怠そうで、ゆっくり開いた目が、再び重そうに閉じた。
「おい。もう着くよ。病院だ、大丈夫だ」
ひたすら話しかける日下部の声も虚しく、秘書がスウッと眠るように気を失っていった。
「マスク!酸素増やして」
にわかに救急車内の空気がざわついたところで、ちょうど病院に到着した。
ダーッと秘書を乗せたストレッチャーが救急室に運び込まれる。
「腹部X線!ラインとって」
一緒に救急車から飛び降りてきた日下部が、救急室に駆け込むなり叫んでいた。
バタバタと、救急のスタッフが立ち回っている。
先に搬送された負傷者の処置をしている声が響き渡る。
隣のベッドに移された秘書の服を、ジャキジャキと切り裂く音が聞こえた。
「状況はっ?」
「ポータブルこっち!」
「ラインとりました」
「血液検査、血ガス早く…」
入り乱れる怒声に、駆け回るスタッフの足音。
胸元で揺れるネクタイを邪魔そうに胸ポケットに突っ込んだ日下部が、腕まくりをし、時計を外している。
「3人目到着します!」
「画像行きました」
「造影CT…」
右から左からと様々な声が入り乱れる中、日下部は撮られた画像が映し出されたパソコンの画面を眺めた。
「っ、やっぱり…」
「日下部先生!血圧下げ止まりません」
「緊急開腹オペだ!オペ場の準備急いで」
テキパキと処置をしながら、様々な数値を確認する。
そこに3人目の負傷者がバタバタと運ばれてきて、山岡が駆け込んできたのが目の端に見えた。
「せーの、いち、に、さんっ」
救急車のストレッチャーから救急室のストレッチャーの上に移された3人目の姿が見える。
服を切る許可を得ている声が、隣から大声で聞こえる。
どうやらそちらは意識があるらしいな、と思いながら、日下部はチラリとそちらに目を流した。
「レ線お願いします。胸部腹部で。CTも撮ってください」
怒鳴り声が響き渡る中、やけに落ち着いた山岡の通る声が聞こえた。
「っ~!あっ、日下部先生?」
不意に、パタパタと救急室に原が駆け込んできた。
まだ残業をしていたのか、日下部たちが帰る前に見た、術衣姿のままだ。
「原先生?どうした?」
「なんか日下部先生たち来るって聞いて。手伝います」
病棟に話が伝わったのか、確か今日の当直の山田という新人医師も下りてきていた。
「助かる。山岡先生、そっちは?」
消化器外科で対応するとしたら、秘書と運転手がメインだろうと隣を窺った日下部に、山岡が冷静に手袋をはめながら振り向いた。
「腹腔内出血か腸管損傷の可能性が。意識レベルGCS15点。ひとまずCT見ます」
「結果待ちだな。山田先生もっていっていい?」
「緊急オペです?」
「脾臓破裂。視力障害も意識障害も出てて、血圧下げ止まらない。ショック起こす前に摘出だ。保存は無理」
「そうですね…。こっちCT見て結果次第でそちら入ります。こっちもオペなら、原先生使いますよ?」
「原先生で大丈夫?」
「ええ」
「了解。山田先生、行くぞ。原先生、山岡先生に従って」
緊張の面持ちで頷いた原を見てから、日下部は手術室に向かうべく、救急室を出て行った。
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