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第265話

「っ、千洋!」 バタバタと廊下を走り始めた日下部は、ふと、駆けつけた家族たちでざわめく一角で呼び止められた。 「は…?なんであなたが…」 ピシッとスーツを着た千里の姿を見つけて、日下部の足が止まる。 見れば千里はその隣に、品の良さそうな綺麗な女性を連れていた。 「な、にしに、来た…」 ギリッと奥歯を軋ませて千里を睨む日下部に、千里は困ったように薄く笑った。 「たまたま会社よりずっとこちらに近い料亭にいたものでな」 駆けつけた、という千里に、日下部の鋭い目は緩まない。 「はっ、女連れでか。開き直ってるの?いっそ笑える。どうでもいいけど、部外者はとっとと出て行って」 冷たく言い放って、日下部は止めていた足を再び1歩2歩と進めていく。 「緊急手術なんだ。あなたに構っている暇はない」 邪魔、とはっきり言い置いて、駆け出そうとする日下部の腕を、千里がとっさに捕まえた。 「何を勘違いしているのか知らないが、この人は…」 「うるさい。緊急だ、って言ってるよな?離して」 バッと千里の手を振り払い、日下部が心底呆れた目を千里に向けた。 「あなたが女遊びしようとなんだろうと勝手にしたらいいし、言い訳なんて聞きたくもない。けどな、そんなことで、俺の仕事の邪魔はするな」 フッと千里から目を逸らし、止めていた足を再び踏み出す日下部を見て、千里の目が揺れた。 「千洋!」 パッと日下部が駆け出そうとした前に回り込み、立ちはだかった千里が日下部を見つめた。 日下部の足が、再びピタリと止まる。 「退いて」 スッと全ての表情を消した日下部が、進路を邪魔している千里をジッと見た。 「千洋、こ…」 「申し訳ありませんが、通してください」 不意に、日下部が静かな表情のまま、丁寧に頭を下げた。 「俺が今すべきことは、一刻も早くオペ場に向かうことです。患者様の元に駆けつけることです」 「っ、千洋…」 「あなたとここで言い争って、足止めを食らうことじゃない。退いてください」 下げていた頭をスゥッと上げ、感情の窺えない瞳を真っ直ぐ前に向ける日下部。 千里の目を見てはいるが、その瞳に千里の姿は映っていない。 強い光の宿る日下部の目には、千里の向こうの廊下の先が、そしてさらにその向こうの日下部の手を必要としている患者の姿が映っているように千里には見えた。 「っ…」 フラリと千里の足が揺れた。 わずかに脇に避けた千里の横を、日下部がスッと通り抜ける。 パッと床を蹴った日下部は、そのまま振り返ることなく、真っ直ぐに廊下の向こうに駆けていった。 ガラガラと、別の患者を乗せたストレッチャーが、呆然と立ち尽くしていた千里の横を通り過ぎていく。 それに付き従うようにパタパタと駆けていた山岡が、ふと千里の姿に気づき、速度を緩めた。 「日下部さん…?」 どうしてここに?と思いながら足を止めた山岡を置いて、ストレッチャーは廊下の先に消えていく。 ぼんやりとそちらに目を向けたまま突っ立っている千里に不思議そうに首を傾げて、山岡がそっとその顔を覗き込んだ。 「日下部さん、どうかしましたか…?」 コテンと首を傾げた山岡に、千里の目がノロノロと焦点を結ぶ。 けれどもまだどこかボンヤリとしている千里が、その様子のまま、ゆっくりと口を開いた。 「っ…あの、子は…」 フラリと廊下の先に目を移した千里が、無意識といった様子で言葉を漏らした。 同じく廊下の先に目を向けた山岡は、千里がその目に何を映しているのかに気がついた。 「はぃ…」 「医者、か…」 フッと、短い吐息と共に吐き出された言葉に、山岡はふわりと微笑んだ。 「はぃ」 力強く頷いた山岡を、千里がハッとして見つめ返した。 「山岡…先生、だったな。こちら、うちの秘書の奥さんだ」 スッと一緒にいた女性を示した千里に、山岡はゆっくりとそちらに顔を向けた。 「千洋は何やら勘違いをしていたようだがな」 「そうでしたか。それは大変失礼を致しました」 ここのスタッフとして代わりに謝ります、と頭を下げる山岡に、女性は小さく首を振って、震える唇を開いた。 「あの、そんなことよりも、あの人は…主人の容体は…」 縋るような目を向けられ、山岡は軽く目を伏せた。 「良くはありません。すぐに手術をしないと、命に関わる状態になっていくでしょう」 「っ!」 「詳しいことは、すぐに別のスタッフが説明に来ると思います」 同意書等も必要だから、と単調に告げる山岡の腕を、女性がギュッと掴んだ。 「助けてくださいっ…」 掴まれた腕の手にそっと手を重ねて、山岡はゆっくりと目を上げた。 「日下部が今、手術に向かいました。信じて下さい。日下部がきっと救います」 静かな声。けれど絶対の信頼と自信が滲む声だった。 女性の手が期待を含んで震え、山岡の腕から離れていく。 隣で千里の身体がピクリと震えたのがわかった。 「千洋が、か…」 「はぃ。きっと誰よりも、秘書さんの命を、掬い上げたいと思っているはずですから」 「っ…」 「その思いに、技術も伴っています。彼以上の適任者はいませんよ。信じて、待っていて下さい」 間違いはない、と強く微笑む山岡に、女性の目が潤み、千里の表情が複雑な色を浮かべた。 「オレもゆっくりはしていられませんので、失礼します」 ペコリと頭を下げた山岡が、言うが早いか、とっくに先を行ってしまったストレッチャーに追いつこうと、タンッと床を蹴った。 パタパタと遠ざかっていく後ろ姿を見送り、千里がフゥーッと長い息を吐き出した。

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