268 / 426
第268話
「で?」
「……」
「謝罪すればいい?」
フッと皮肉に笑って、スウッと目を細めた日下部に、千里も同じように目を細めた。
ピンと張り詰めた緊張感が、室内の空気を満たす。
うんともすんとも言わない千里を見据えて、日下部は1つ、大きなため息をついて、椅子から立ち上がった。
「あの女性…。あなたとの関係を邪推して、失礼な発言をしてすみませんでした」
少しも思っていなさそうな冷たい声で、日下部はわざとらしいほど深く頭を下げた。
「っ…千洋」
「気が済みましたか?」
ふっと息を吐き出して、ゆっくりと頭を上げた日下部は、これでもかと言うほど冷たい目を千里に向けた。
それを受けた千里が、小さく首を左右に振って、ゆっくりと立ち上がる。
「っ!」
千里の左右に振られた首を、不満と捉えた日下部が、ギリリと奥歯を噛み締めた。
「これ以上、なにを…」
さらに要求するつもりか、と冷ややかなオーラを纏った日下部の目の前で、千里が深々と上半身を折り曲げた。
「は…?」
「ありがとうございます」
最敬礼と思われる角度で、深く頭を下げた千里が、日下部のゆっくりと見開かれていった目に映っていた。
呆然と開いた日下部の口が、何かを言いかけて、小さく震える。
その目の前で、深く頭を下げたままの千里が、さらに言葉を重ねた。
「私の、大切な息子の命の恩人を、救ってくれて、ありがとうございます、先生」
一言一言をゆっくり丁寧に告げた千里が、数秒間頭を下げ続けた後、そっと身体を起こした。
その目が、非常に珍しくうろたえた表情を浮かべている日下部を捉えた。
「っ、な…」
突っ込みどころが満載で、けれどそのどれ1つとして上手く言葉にできなくて、日下部は馬鹿みたいに口をパクパクと動かした。
「ところで、私も会わせてもらえるのかな?」
思い切り動揺している日下部が可笑しいのか、フッと笑みを漏らした千里が、その楽しげな表情のまま、緩く首を傾げた。
「は…?え…?」
完全にパニックを起こしている様子の日下部は、無意味な音しか漏らせない。
ゆったりと微笑んだ千里が、柔らかく目を細めて、そんな日下部を静かに見つめた。
「……」
「…な、に?」
「おまえが医者をしている姿を、初めて見たよ」
不意に、柔らかい表情をしたまま、千里がポツリと呟いた。
「医者だった」
ふわりと笑ってわけのわからない言葉を紡いだ千里に、日下部の眉がギュッと寄った。
怪訝な表情に変わった日下部の顔を、千里はなおも静かに見つめる。
「悔しいけれど、眩しいほどに、医者だった」
ゆっくり動いた千里の唇が、とても優しい色を乗せて空気を震わせた。
「なっ…」
「あの時…私が進路を遮ったとき、おまえは迷わず私に頭を下げたな。ただ、患者の元に走りたいがために。ただ患者の命だけを見据えて…」
「っ…」
「引き際か」
フッと小さな吐息を漏らして、ストンと椅子に腰を下ろした千里が、ゆったりと足を組んで背もたれに仰け反った。
「はははっ。おまえといい、山岡…先生といい…。医者というのは、みんなああなのか?」
ククッと可笑しそうに笑みを漏らした千里に、日下部は意味を取りかねて首を傾げた。
「普段は呆れるほど子どもだったり、オドオドと俯いてばかりだったり、まったくどうしようもないと思うのに…」
「っ?」
「命が絡んだ瞬間、ああも豹変するものか。恐ろしく真剣で、ものすごく頼もしく、凜として堂々として…」
はは、と笑いを浮かべる千里が、温かい目をして日下部を見つめた。
「格好良かった」
「…っ?」
「おまえも、山岡先生も」
穏やかな表情を浮かべる千里の目は、日下部と、そして日下部が選んだパートナーを認める、とても優しいものだった。
日下部の唇が、小刻みに震える。
スッと逸らされた目は、何を意味しているのか。
「千洋」
「っ…」
「望み通りに生きなさい」
静かに放たれた千里の声が、静かな室内の空気を揺らして消えた。
くっと息を飲み込んだ日下部が、恐る恐る、千里に視線を戻していく。
「っ…」
ピタリと合わさった千里の目は、これ以上ないほどの愛情を映して穏やかに緩んでいた。
「では私は、あいつの様子でも見せてもらいに…」
ゆっくりと椅子から立ち上がり、ドアの方へ歩いて行く千里を、日下部の戸惑いに揺れる目が見つめた。
呆然としたまま開かれる日下部の口は、単調な音を事務的に漏らす。
「会えないよ」
「え?」
「家族以外は、ICUには入れない。ガラス越しなら、見れるけど…」
ポツリポツリと言葉を発するたびに、ようやく日下部らしさが取り戻されてくる。
「そうか…」
「なぁ…」
「なんだ」
「っ…俺、は…」
とっさにふらりと持ち上がった日下部の手は、何も掴めずにギュッと拳を作り、ダランと身体の横に垂れた。
「……」
「話がないなら、私は行くよ。またICUとやらを出たら、見舞いに来る」
どうにも言いたいことがまとまらない日下部をチラリと見て、千里は小さな苦笑を浮かべながら、そっと部屋を出て行った。
「待っ…」
反射的に後を追って部屋を飛び出した日下部は、スタスタとICUに向かって歩いて行く千里の後ろ姿を、困惑したまま見つめた。
(追って、何を言う…?)
まったくもって頭の中が大混乱したままの日下部は、タッと駆け出し掛けていた足を、フラリと緩めた。
その向こうに、ICUのガラスの前に立った千里の後ろ姿が見えた。
ガラス越しに、機械に囲まれ、ベッドに寝ている秘書の姿が見える。
その横に付き添っている、ガウンにマスクと帽子姿の女性は、先ほど教えられた奥さんか。
ぼんやりとその光景を見つめていた日下部は、不意に千里が、スッと背筋を正して、深々とガラスの向こうに向かって頭を下げた姿を見た。
「っ?!」
『すまない。大事な大事な千洋を守ってくれて、ありがとう…』
ゆっくりと動いた千里の唇が、何を呟いたのかはわからなかった。
けれど、その様子と表情から大体のことを察した日下部の身体が、フルリと小さく震えた。
(今、さらっ…)
ギュッと噛み締められた唇は、一体何を堪えたものなのか。
じわりと滲んだ景色が、その答えを示している。
「っ…」
固く握り締められた日下部の拳が、小刻みにフルフルと震え、廊下に佇んだ日下部の身体は、硬直したようにその場から動かなかった。
ともだちにシェアしよう!