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第268話

「で?」 「……」 「謝罪すればいい?」 フッと皮肉に笑って、スウッと目を細めた日下部に、千里も同じように目を細めた。 ピンと張り詰めた緊張感が、室内の空気を満たす。 うんともすんとも言わない千里を見据えて、日下部は1つ、大きなため息をついて、椅子から立ち上がった。 「あの女性…。あなたとの関係を邪推して、失礼な発言をしてすみませんでした」 少しも思っていなさそうな冷たい声で、日下部はわざとらしいほど深く頭を下げた。 「っ…千洋」 「気が済みましたか?」 ふっと息を吐き出して、ゆっくりと頭を上げた日下部は、これでもかと言うほど冷たい目を千里に向けた。 それを受けた千里が、小さく首を左右に振って、ゆっくりと立ち上がる。 「っ!」 千里の左右に振られた首を、不満と捉えた日下部が、ギリリと奥歯を噛み締めた。 「これ以上、なにを…」 さらに要求するつもりか、と冷ややかなオーラを纏った日下部の目の前で、千里が深々と上半身を折り曲げた。 「は…?」 「ありがとうございます」 最敬礼と思われる角度で、深く頭を下げた千里が、日下部のゆっくりと見開かれていった目に映っていた。 呆然と開いた日下部の口が、何かを言いかけて、小さく震える。 その目の前で、深く頭を下げたままの千里が、さらに言葉を重ねた。 「私の、大切な息子の命の恩人を、救ってくれて、ありがとうございます、先生」 一言一言をゆっくり丁寧に告げた千里が、数秒間頭を下げ続けた後、そっと身体を起こした。 その目が、非常に珍しくうろたえた表情を浮かべている日下部を捉えた。 「っ、な…」 突っ込みどころが満載で、けれどそのどれ1つとして上手く言葉にできなくて、日下部は馬鹿みたいに口をパクパクと動かした。 「ところで、私も会わせてもらえるのかな?」 思い切り動揺している日下部が可笑しいのか、フッと笑みを漏らした千里が、その楽しげな表情のまま、緩く首を傾げた。 「は…?え…?」 完全にパニックを起こしている様子の日下部は、無意味な音しか漏らせない。 ゆったりと微笑んだ千里が、柔らかく目を細めて、そんな日下部を静かに見つめた。 「……」 「…な、に?」 「おまえが医者をしている姿を、初めて見たよ」 不意に、柔らかい表情をしたまま、千里がポツリと呟いた。 「医者だった」 ふわりと笑ってわけのわからない言葉を紡いだ千里に、日下部の眉がギュッと寄った。 怪訝な表情に変わった日下部の顔を、千里はなおも静かに見つめる。 「悔しいけれど、眩しいほどに、医者だった」 ゆっくり動いた千里の唇が、とても優しい色を乗せて空気を震わせた。 「なっ…」 「あの時…私が進路を遮ったとき、おまえは迷わず私に頭を下げたな。ただ、患者の元に走りたいがために。ただ患者の命だけを見据えて…」 「っ…」 「引き際か」 フッと小さな吐息を漏らして、ストンと椅子に腰を下ろした千里が、ゆったりと足を組んで背もたれに仰け反った。 「はははっ。おまえといい、山岡…先生といい…。医者というのは、みんなああなのか?」 ククッと可笑しそうに笑みを漏らした千里に、日下部は意味を取りかねて首を傾げた。 「普段は呆れるほど子どもだったり、オドオドと俯いてばかりだったり、まったくどうしようもないと思うのに…」 「っ?」 「命が絡んだ瞬間、ああも豹変するものか。恐ろしく真剣で、ものすごく頼もしく、凜として堂々として…」 はは、と笑いを浮かべる千里が、温かい目をして日下部を見つめた。 「格好良かった」 「…っ?」 「おまえも、山岡先生も」 穏やかな表情を浮かべる千里の目は、日下部と、そして日下部が選んだパートナーを認める、とても優しいものだった。 日下部の唇が、小刻みに震える。 スッと逸らされた目は、何を意味しているのか。 「千洋」 「っ…」 「望み通りに生きなさい」 静かに放たれた千里の声が、静かな室内の空気を揺らして消えた。 くっと息を飲み込んだ日下部が、恐る恐る、千里に視線を戻していく。 「っ…」 ピタリと合わさった千里の目は、これ以上ないほどの愛情を映して穏やかに緩んでいた。 「では私は、あいつの様子でも見せてもらいに…」 ゆっくりと椅子から立ち上がり、ドアの方へ歩いて行く千里を、日下部の戸惑いに揺れる目が見つめた。 呆然としたまま開かれる日下部の口は、単調な音を事務的に漏らす。 「会えないよ」 「え?」 「家族以外は、ICUには入れない。ガラス越しなら、見れるけど…」 ポツリポツリと言葉を発するたびに、ようやく日下部らしさが取り戻されてくる。 「そうか…」 「なぁ…」 「なんだ」 「っ…俺、は…」 とっさにふらりと持ち上がった日下部の手は、何も掴めずにギュッと拳を作り、ダランと身体の横に垂れた。 「……」 「話がないなら、私は行くよ。またICUとやらを出たら、見舞いに来る」 どうにも言いたいことがまとまらない日下部をチラリと見て、千里は小さな苦笑を浮かべながら、そっと部屋を出て行った。 「待っ…」 反射的に後を追って部屋を飛び出した日下部は、スタスタとICUに向かって歩いて行く千里の後ろ姿を、困惑したまま見つめた。 (追って、何を言う…?) まったくもって頭の中が大混乱したままの日下部は、タッと駆け出し掛けていた足を、フラリと緩めた。 その向こうに、ICUのガラスの前に立った千里の後ろ姿が見えた。 ガラス越しに、機械に囲まれ、ベッドに寝ている秘書の姿が見える。 その横に付き添っている、ガウンにマスクと帽子姿の女性は、先ほど教えられた奥さんか。 ぼんやりとその光景を見つめていた日下部は、不意に千里が、スッと背筋を正して、深々とガラスの向こうに向かって頭を下げた姿を見た。 「っ?!」 『すまない。大事な大事な千洋を守ってくれて、ありがとう…』 ゆっくりと動いた千里の唇が、何を呟いたのかはわからなかった。 けれど、その様子と表情から大体のことを察した日下部の身体が、フルリと小さく震えた。 (今、さらっ…) ギュッと噛み締められた唇は、一体何を堪えたものなのか。 じわりと滲んだ景色が、その答えを示している。 「っ…」 固く握り締められた日下部の拳が、小刻みにフルフルと震え、廊下に佇んだ日下部の身体は、硬直したようにその場から動かなかった。

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