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第269話
「…?日下部先生?」
不意に、目の前にヒョコッと山岡の顔が現れた。
思わずビクッと身を引いた日下部に、山岡の目が不思議そうに揺れる。
「どうしました?こんなところに突っ立って」
コテンと首を傾げた山岡に、日下部はゆっくと辺りを見回した。
「あ…?」
見れば日下部は、先ほど千里の姿を後ろから眺めていた廊下の途中に立ったままで、気づけばその千里は帰ってしまったのか、そこに姿はない。
相変わらずベッドの横に付き添ってる奥さんが、心配そうに秘書を見つめ、その隣のベッドには、先ほどまでいなかった新たな患者が眠っている。
「えっと…?」
「大丈夫ですか?オレの方もオペが終わって、さっき患者さんがICUに運ばれて。オレは今来たところなんですけど…」
あそこ、と山岡が示したのは、秘書の隣の新たなベッド。
「日下部先生が固まったまま動かないでここにいて…何かありました?」
そっと窺うように首を傾げた山岡に、日下部はふっと苦笑して、小さく首を振った。
「何でもない。ちょっと色々あって、ボーッとしてた」
ごめん、ごめん、と笑う日下部は、いつもの綺麗な笑みを浮かべていた。
「そうですか?お疲れ様です。そちらのオペは?」
安定した様子で眠っている秘書にチラリと視線を向けて、山岡が分かっているだろう問いを口にしていた。
「無事終わったよ」
「よかったです」
「山岡先生もオペになったのか」
「はぃ。腸管穿孔で」
「うわ…原先生でいけた?」
「えぇっと…」
「いや、はっきり言っていいけど」
「救急から助手借りました…」
あはは、と笑った山岡に、日下部は納得顔で頷いた。
「そっか。無事に?」
「はぃ。まぁ、これからのほうが勝負ですけど。まだまだ予断を許しません」
「そうだな…」
うん、と1つ頷いた日下部が、ふとICUに視線を移した。
「あいつ…。俺の身代わりになって、あんなところに眠ってやがって…」
わずかに青ざめ、手を小さく震わせた日下部に、山岡は気がついた。
「千洋?」
「本当なら、あそこにいたのは俺かもしれなかった…」
「千洋…」
オズオズと伸ばされ、そっと手を握ってきた山岡の手に気づき、日下部が薄く目を細めた。
「ん。大丈夫」
「はぃ…」
「救えてよかった」
ホッと身体から力を抜いた日下部を見上げ、山岡がふわりと微笑んだ。
「はぃ」
「父が…」
「え…?」
「いや。その話はまた後にする。それより、お腹すいたな~」
ふわりといつもの優しい笑みを浮かべた日下部が、ウーンとのびをした。
「そうですね…」
「帰るか…。ついでにどこかで食べていく?」
面倒だし、と笑う日下部に、山岡が困ったように目をさまよわせた。
「すみません、その…服が」
小さく首を傾げて謝る山岡に、日下部がハッとそのことに思い至った。
「そういえば、血はついてるし汚れているし、とてもどこかに寄れる状態じゃないな」
今はお互いスクラブだが、私服は救助の時に汚してとても着れたものじゃない。
「家に何かあったかなぁ?」
材料、と考え始める日下部に、山岡がうーん、と考えた後、ポンと手を打った。
「そうだ。当直室にカップ麺があるから…」
食べていけばいい、と思った山岡が、素直にそのまま口にするのに、日下部の目がジトッと据わった。
「おまえね、喧嘩売ってるの?」
ギロッと睨みを効かせた日下部に、山岡の身体が面白いほどビクッと強張った。
「昼もあんなゼリーだけで、オペ2件こなして仕事片付けて、挙げ句大事故の救命して緊急オペまでしといて…カップ麺?」
「あ~、えっと…?」
「明らかに、消費に対して摂取カロリー足りてなさすぎ。多忙で金のない研修医じゃないんだからさ…」
怒りを通り越して呆れ果ててしまった日下部に、山岡はシュンと俯いた。
「仕方ないな。とりあえず家に帰って、冷蔵庫覗いてみるか…」
何かしらあったはずだと思いながら首を傾げて、日下部は山岡の頭をポンッと叩いた。
「作ってやる」
ニコリと笑って歩き出した日下部に、山岡も慌てて後を追った。
「でも日下部先生もお疲れなのに」
「気にするな。それより、車取りに行くの面倒くさいな…。おまえ、術衣に白衣でタクシー乗る勇気ある?もしくは術衣にコート?やだな…」
ロッカーにコートは置きっ放しにしている日下部が、その姿を想像して顔をしかめた。
「まぁ、10分くらいですし…病院から乗れば、そこまで変に思われないかもしれないですよ?」
「2人ともでも?」
「う、まぁ…」
思わず言葉に詰まった山岡を見て、日下部が、ん~?とよからぬ企みをしている時の表情を浮かべた。
「そういえば、いい足がまだ残ってたな」
「え…?」
「原先生。どこにいるかな~?」
送らせよう、と企んでいるのが丸わかりな日下部の表情に、山岡が困ったように苦笑した。
「あの…原先生、多分車じゃないですよ?」
「え…?」
「この前、鍵を持っているの見ましたけど…あれ、自転車の鍵でした」
ははは、と困ったように笑っている山岡に、日下部の表情が一気に疲れたものに変わった。
「まったく使えない…」
はぁっと大げさなため息をついた日下部が、とうとう諦めたように天井を仰ぎチラリと山岡を見た。
「タクシー呼ぶか…」
ふっと吐息を漏らした日下部に、山岡も苦笑しながら頷いた。
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