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第270話
そうして結局、病棟に白衣を取りに行き、スクラブの上に羽織った2人は、渋々タクシーに乗り込み帰宅した。
人目を避けるように素早くエントランスを抜け、どうにか誰にも会わずに部屋まで上がってきた。
「ふぅ。運転手さん、まったく気にしてませんでしたね」
「まぁそんなもんか。さてと、食料あるかな~?」
リビングに入り、疲れたようにそのままドサッとソファに座った山岡を見ながら、日下部がキッチンに入って冷蔵庫を開けた。
「う~ん、牛丼くらいか…」
目に入った材料で作れるもの、と考えながら、冷蔵庫の中を漁っていた日下部が、リビングを振り返った。
「山岡?」
「……」
「おい?寝ちゃった?」
ソファに深く座ったまま、目を閉じている山岡を見て、日下部が首を傾げた。
「っ?!あ、いえ…」
一瞬寝かけていたのだろう。ハッと驚いたように目を開いた山岡が、慌てて顔を上げた。
「疲れたよな」
ニコリと微笑みながら首を傾げている日下部に、山岡は慌てて首を振った。
「大丈夫です。ちょっと気が抜けただけで…」
「そっか。まぁ、目の前であんな大事故が起きて…ずっと気を張っていたしな」
うん、と苦笑している日下部にも、十分疲労が窺えた。
「日下部先生も疲れているのにすみません」
食事を作らせるのが申し訳なくて頭を下げる山岡に、日下部は緩く首を振った。
「確かに身体は結構疲れているんだけどさ、なんか、神経は興奮しているっていうか、高ぶっているっていうか…」
あまり疲れを感じないんだよね、と苦笑している日下部の気分は、山岡にもわかった。
「日下部先生も…」
「ん~?」
「やっぱり、外科医ですね」
ふふ、と笑っている山岡は、そっと持ち上げた自分の手を見下ろしていた。
「不謹慎なのはわかっているんですけど、ね」
薄く目を細めてその手のひらを見つめる山岡と、同じ思いを日下部も抱いていた。
「わかり合えないと思ってた」
「え…?」
「だけど、あの人がさ…」
ポツリと呟いた日下部は、調理台の向こうで静かな静かな微笑を浮かべていた。
「日下部先生?」
「ん。やっぱり、さ、こういうときに、こんな思いをわかってくれるのは、同じ外科医しかありえないな~って思うんだよね」
トントンと、包丁で何かを切っているらしい調理の音が響く。
白衣姿のまま料理をしている日下部は、家で、キッチンの中だというのに医者に見えて。
山岡はカウンター越しに見えるその姿を、目を細めて見つめる。
「端から見たらさ、きっと完全な狂気だ。でも、山岡はわかるだろ?」
「はぃ…」
「だからやっぱり、俺は山岡と歩く道がいい」
ふっと笑った日下部の笑顔は、とても穏やかで綺麗だった。
「っ…」
「俺はやっぱり、医者なんだと思った。そして医者でいたいとも思った。山岡と、同じ道にいたいと」
「日下部先生…」
キッチンからは、クツクツと何かを煮ている音が聞こえてくる。
その音に重なって、日下部の掠れた艶っぽい声が届いた。
「あの人が、認めたよ」
「え…?」
「多分、だけど…。今なら、もしかしたら、きちんと話ができるかもしれない」
ふっと薄く目を細めた日下部の様子は、見なくても山岡にはわかった。
「きちんと、向き合おうと思う」
「日下部先生…」
「うん。だから今度、一緒に付き合って」
「え?」
「両親に、きちんと紹介するよ」
改めて、正式に、と暗に言っている日下部に、山岡はピクリと震えた後、大きく頷いた。
「はぃ」
キッチンの向こうの日下部がどんな顔をしたのかは、リビングにいる山岡にはわからなかった。
けれどなんとなく、ホッとしたような雰囲気が伝わってきた。
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