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第278話

そうして滞りなくカンファレンスを終え、山岡は日下部と並んで廊下を歩いていた。 「日下部先生、ICU行きます?」 「うん、そのつもり。山岡先生も?」 「はぃ」 廊下の分かれ道で、ICUの方に足を向けた日下部に、山岡もそのまま並んでついて行った。 ガラスの壁で仕切られた向こう側に、数人の患者のベッドが並んでいる。 それぞれが様々なチューブや機械の線につながれて寝ている中に、ガウンと帽子とマスクを身につけた面会者の姿も見える。 山岡は自分が手術をした患者の方へ、日下部は秘書のベッドの側へ、それぞれ近づいていった。 「起きてます?どうですか、調子は」 ベッドの上に身体を横たえたまま、目はパッチリと開いていた秘書を覗き込んで、日下部がニコリと微笑んだ。 すでに自発呼吸をしていて、気管チューブの抜けている秘書の口が、ゆっくりと動く。 「悪くはないです」 「よくもない、ってところですか。失礼しますよ」 緩慢な動きで頷く秘書をチラリと見てから、日下部は診察を始めた。 「ん。順調に回復中」 様々な機械に目を走らせ、ベッドに掛けてあったボードの数値を眺めて、それに何かを書き足していく。 その姿をぼんやりと眺めていた秘書が、不意にクスッと笑い出した。 「なに?」 「いえ、千洋さんが、医者に見えるので」 「は?医者に見えるって、俺は医者だよ」 頭打った?と変な顔をしている日下部に、秘書はますます笑みを深くした。 「本当にご立派になられて…」 しみじみと微笑む秘書に、日下部の顔が嫌そうに歪む。 「急にどうした」 「私の命を掬い上げてくださったそうで。ありがとうございました」 ベッドに寝転んだまま、頭を下げるように顎を引いた秘書に、日下部の顔はますます嫌そうになった。 「礼を言うのは俺の方だよ。あのとき…おまえが庇ってくれなかったら、そこに寝ていたのは俺だ」 「……」 「ありがとう」 スッと軽く頭を下げた日下部が、けれどもすぐに怖いほど真剣な顔をして、秘書を見つめた。 「だけど、2度としないでくれ」 「千洋さん…」 「自分の身を投げ出してまで…そんなやりかたは…」 ぐっと言葉を詰まらせてしまった日下部に、秘書はゆったりと微笑んで、再び頭を下げた。 「申し訳ありません。とっさに身体が動いてしまったもので。今後気をつけます」 穏やかな微笑みを浮かべて謝る秘書は、ずっとずっと大人だった。 そんな風に謝らせたかったわけではないけれど、日下部の気持ちを汲んだ上で答える秘書に何も言えずに、日下部はギュッと唇を噛み締めた。 「お話し中失礼します、オレもいいですか?」 ふと、そこに自分の担当の診察が終わったらしい山岡が側まで来ていた。 「ん?あぁ…」 「あの、秘書さん。どうもありがとうございました」 秘書のベッドの横に立ち、ペコリと深く頭を下げた山岡に、秘書が不思議そうに首を傾げた。 「えっと…?」 「たまたまなのかもしれませんけど、日下部先生と一緒に突き飛ばしてもらえたから、オレも事故に巻き込まれずに済みました」 「あぁ…」 「それと、日下部先生を、身体を張って守ってくれて、本当にありがとうございました」 ペコリ、とさらに深く頭を下げた山岡に、秘書がふわりと微笑み、日下部が驚いたように目を見開いた。 「山岡…」 「悪いな、とは思ってるんです。でもそれ以上に、日下部先生が無傷で無事なことを、オレは嬉しいと思ってます」 あまりに正直に告げる山岡に、日下部がクシャリと顔を歪め、秘書は可笑しそうにニコリと笑った。 「私も同じですので、お気になさらず」 「っ…すみません」 「いえ。千洋さんがご無事で、本当によかったと思っています」 「はぃ、ありがとうございます。それで…そのお礼が、できるようです」 一瞬だけ、チラリと日下部の耳を気にした後、山岡は思いきって秘書に告げた。 真っ直ぐな山岡の目に何を察したか、秘書の目が穏やかに細められた。 「そうですか」 「はぃ…」 「よろしくお願いします」 「はぃ」 きちんと意味を察してくれたらしい秘書にホッとして、山岡はコクンと頷いて、スッと足を引いた。 「……」 「千洋さん」 「なんだ」 「私はいつここから出られるんでしょうか?」 ジッと2人の会話の意味を考えていたらしい日下部に、ふと秘書が口を挟んだ。 唐突な質問だったが、日下部は反射的に思考がそちらに流される。 「ここ、っていうのはICU?なら、今夜にでも移れるよ」 「そうですか」 「退院の話になると、悪いけどまだ先」 カタン、とバインダーをベッドの足下のテーブルに置いた日下部が、チラリと点滴に目を移した。 「それが終わったら、病棟と調整してくる。早く出たいんだろ?」 「えぇ、できれば」 「仕事する気?」 「禁止しますか?」 この秘書が、千里の第一秘書で右腕で、そして端から見るその立場以上に千里にとって必要不可欠な存在だということくらいは、日下部にもわかっていた。 「別に…。無理しなきゃ構わない」 主治医の一応の許可の言葉に、秘書がホッとしたように顔を緩ませた。 「じゃぁ早速病棟に指示出してくるよ」 クルリと身を翻した日下部は、いつの間にか静かにいなくなっていた山岡が、すでにICUの外を歩いているのを見つけた。 「あいつ、逃げたな…」 「ふふ」 「おまえも…何を企んで…あ、もしかして」 不意に、日下部が何かにひらめいたように足を止めた。 「光村先生と…山岡、そしておまえ…あの人か」 ハッとしたように振り返った日下部に、秘書は感情の窺えない綺麗な笑みを浮かべていた。 「昨日の話…」 「お忘れください」 「忘れられるかよ。あれ、もしかして、本当…?」 呆然と呟く日下部に、秘書はイエスともノーとも答えず、ただ綺麗な笑みを浮かべたまま、スッと目を閉じた。 「少々疲れたので眠らせてください」 「……」 「……」 「おい」 「……」 答えろ、と睨む日下部にも無反応を通し、秘書は寝たふりをしたまま、本当に寝息を立て始めてしまった。 「ったく…」 どいつもこいつも、とふて腐れながら、日下部は仕方なく、ICUを出て行った。 戻った病棟には山岡の姿はなく、日下部は仕方なく看護師に個室の用意を頼む。 「先に戻ったくせに、どこ行った…」 医局か?と首をひねりながら秘書の受け入れ準備を指示する日下部は、結局定時になるまで山岡を見つけることはできなかった。

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