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第280話
午後1時。
予定通り、山岡は特別棟の特別診察室内の椅子に座っていた。
向かいの患者用の椅子には、ピシリとスーツを着こなした千里の姿がある。
日下部は何も知らずに、今頃はオペ室の中だろう。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします。消化器外科の山岡です」
紹介状と前院の検査データ、電子カルテを広げながら、山岡は穏やかに千里を見つめた。
「まずはお名前をお願いします」
「日下部千里だ」
「はぃ。えっと、本日はセカンドオピニオンをご希望ということで…」
「あぁ」
ゆったりと頷く千里から目を剥がし、山岡は手元の資料に視線を落とした。
「そうですね…。T1bN2…食道癌のⅡ期、ということになるでしょう」
「そうか」
「がんが粘膜下層を超え、食道付近のリンパ節への転移が認められます。遠隔転移はないと見ていいと思います」
ジッと資料を眺めながら、山岡は落ち着いた声で告げた。
「同じ、だな」
「そうですか」
「で?同じように、すぐに入院して、手術を受けろ、放射線治療をしろ、という話になるわけか」
フッと皮肉げに唇の端をつり上げる千里を見て、山岡は静かに首を上下させた。
「期間は」
「まずは放射線で癌を小さくして、それから手術で切り取ることになります。少なくても3週間から1ヶ月。状態や予後によってはそれ以上」
きっと前の病院でも同じことを言われてきたのだろう。
千里は何ら驚くこともなく、静かに山岡を見つめた。
「別の、選択肢は?」
「と、言いますと」
「待てないか?」
ポツリ、と千里の口から、希望に縋るような、震える声が落ちた。
山岡は静かにそれを受け止め、わずかに逡巡した。
「山岡先生?」
「そう、ですね。待てば待つだけ…治療の選択肢が減っていくことになります。それでも、待ちたいと望むのなら…」
ふと、山岡はそこで言葉を句切り、ジッと真っ直ぐに千里を見据えた。
「っ…」
「リスクしかない賭けに出ることになります」
少しも揺れない堂々とした声で、山岡ははっきりと断じた。
千里がその強い視線に気圧されて、ヒュッと短く息を飲む。
それでもさすがに大企業を束ね、頂点に君臨する覇王様か。すぐに立ち直りを見せて、薄く笑いすらその顔に浮かべて見せた。
「前の医者は、待てない、と。ただそう言った」
「そうでしょうね。オレも、待てるとは言っていません」
「そう、だな」
「今切れば、癌はほぼ取りきれる。オレはできます。けれど、待てば待っただけ、手術で全て取り去るということが難しくなっていきます」
「あぁ」
「その『今』がいつまで続くかは、さすがに予知できません。進行度のある程度の予測はつきます、けれど、絶対ではありません」
「明日、新たな転移が起こるかも知れない?さらに深くに、癌が進行するかもしれない?」
ニヤリと楽しげにすら見える笑みを浮かべて、千里は山岡の言いたいであろう言葉を軽々と口にした。
だから山岡もそれに乗り、ゆっくりと唇の端をつり上げた。
「リスクしかないのをわかっていながら、待ちますか?」
静かで、わずかも揺れない、山岡の声だった。
千里の顔が、楽しげなものから、一瞬だけ寂しそうに揺れて、その後とても綺麗な微笑みに変わった。
それは、日下部が浮かべる優しい笑顔にとてもよく似ていて、そしていくつかの年を重ねた、確かに千里のそれだった。
「私は…経営者として、私の積み上げたものを引き継ぎ、その椅子に座る千洋の姿を見たかった」
「日下部さん…」
「けれどあの子は、医者になってしまった。何の疑問の余地もないほどに…医者、だった」
「……」
「なぁ、今日、千洋は?」
ふと、緩く首を傾げた千里を、山岡は静かに見つめた。
「今は、オペ中かと思います」
「そうか…」
静かに頷いたまま、千里が不意に黙り込んでしまった。
その目が何かを考えるように、右へ左へと揺れた。
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