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第281話
そうして、どれくらいの沈黙が下りたか。
黙って千里が口を開くのを待っていた山岡の耳に、小さな吐息が聞こえてきた。
「ふぅ。私は、何千、何百という人間の生活を背負う経営者だからな」
「はぃ」
「勝ち目のない博打を打つような真似は、1度だってしてきたことがないんだ」
「はぃ…」
「打つのなら、確実に勝てる手を。この足が歩む道は、よりメリットが大きな方を。私はそうして選んできた」
ひとつ、ゆっくりと瞬きをして、千里がゆるりと微笑んだ。
「千洋はきっと、私が用意した椅子には、絶対に座らんな」
「日下部さん…」
「諦めようと思う。夢を、1つ」
穏やかに微笑む千里は、すでに何かを決意しているようだった。
「……」
「そして、諦めないでいようと思う。命を」
きりりとした目で、真っ直ぐに視線を向けた千里を、山岡は静かに受け止めた。
「諦めないでいようと思う…」
ゆっくりと瞼を伏せた千里が何を思っているのか、山岡にはなんとなくわかるような気がした。
「さてと。ところで山岡先生」
「はぃ」
「こちらに転院を希望したとして…そのとき、執刀医は、きみになるのかな?」
ん?と首を傾げた千里を見て、山岡は静かに微笑んだ。
「ご指名とあれば、切らせてもらいますが」
「千洋は?」
「そうですね。基本的には、身内のオペはしないものです」
「できないのか」
「いえ。当人同士がよろしければ、駄目ということはありません」
「そうか」
ふむ、と1つ頷いた千里が、何かを考えるようにしばし黙った。
「転院…なさるおつもりで?」
「いや。検討中だな」
「日下部先生は…」
「ん?」
「日下部先生は多分、切れないと思います」
ポツリと、山岡の口からは、思わず言葉が漏れていた。
「切れない?」
何故?と不思議そうな顔をしている千里に、山岡はハッと自分が口走った言葉に気づいて、口を手で覆った。
「いえ…すみません」
「山岡先生」
ピシリ、と逃げを許さない千里の声だった。
口を手のひらで覆ったままの山岡が、その声にピクリと震える。
「っ…」
「技術がないと?」
ジッと心の底を見透かすかのような千里の目を向けられ、山岡はゆっくりと口元から手を離し、小さく首を振った。
「いえ。技術に関しては、十分すぎるほどです。むしろ日下部先生以上の腕を求める方が難しいです」
「では何故」
疑問だ、と瞳を揺らす千里に、山岡はそっと目を伏せて、ポツリと口を開いた。
「父、だからです…」
「なんて?」
「あなたが、日下部先生の、お父様だからです」
スッと目を上げて、凜然と告げた山岡に、千里はますます不思議そうに首を傾げた。
「それが何か…」
さらに追求の手を伸ばそうとした千里は、山岡がただ静かに微笑んでいるのを見て、口を結んだ。
「きみという男は…」
「すみません」
「後は直接、千洋に聞けということか」
「申し訳ありません」
静かに微笑む山岡を見つめたまま、千里は参ったというように、ふらりと天井を仰ぎ見た。
「ふぅーっ…」
「……」
「話は、以上かね?」
「他に、疑問や質問がなければ」
「そうか…」
「はぃ」
またも、わずかな沈黙が、診察室内の空気を満たした。
ふと、次に静かな空気を割ったのは、千里の起こした小さな衣擦れの音だった。
「失礼するか」
「はぃ」
「治療は、する。入院も、手術も。転院は…少し考える」
「はぃ。前院と、それほど違う真新しいアプローチ法を提示できたわけではありませんので。敢えてこちらに移るメリットは特にないと思います」
「デメリットは…千洋に知れる、か?」
「そうですね。いくら特別室でも、うちの科の医師に隠し通すことは、さすがにできないかと」
「わかった。そういえば、あいつは?」
「え?」
「うちの秘書がいたろう?」
「あぁ、お会いしていきますか?もうICUも出て、病室に移っています。もうすぐ面会時間になりますし、お会いできますよ」
ニコリと微笑む山岡に頷いて、千里はゆっくりと椅子から立ち上がった。
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