293 / 426

第293話

「っ…」 2人の呼吸が、息を詰めたように止まる。 その張り詰めた空気を緩やかに切り裂いたのは、ふわりと目元を緩ませた、日下部の父の方だった。 「きみには、本当に敵わないな…」 はは、と苦笑する日下部の父が、眩しそうに目を細めて、山岡を見つめた。 「そうだ。大切だからだ…」 ふぅっ、と深く息を吐きだしながら、日下部の父は、降参だ、というように、ソファの背もたれに身体を預けて天井を振り仰いだ。 「本当は…本当は私は、ただ純粋に、千洋のすべてを大切に思っていた…」 「っ…」 父の独白に、日下部がヒュッと鋭く息を吸い込んだ。 「千洋に好きな進学先を自由に選ばせたのも、学費や生活費を黙って与えたのも…本当はただ、千洋の人生を、その意志を尊重し、千洋の生き方を大切にしてやりたかっただけだった」 「っ…俺に、わずかの興味もなかったわけじゃなくて…?」 「ふはは。それはそうだろう?だっておまえは、私の大切な息子だ」 「っ…な、にを、そんな…」 今さら、と唇を噛む日下部に、父の穏やかな目が向けられた。 「先におまえの信頼を大きく裏切ったのは私だ。だからそう、いまさらだ、と思い、おまえにそんな想いを伝えようなどと思ってこなかった」 「っ…」 「だからただ黙って、おまえがしたいように、おまえが望むように、おまえの思いだけを尊重し、見守ってきたつもりだった」 「それはっ…」 「あぁそうだ。だがそれがおまえには、ますます私がおまえと距離を置き、ただただ冷たく突き放しているようにしか映らなかったのだよなぁ」 ははは、と自嘲気味に微笑んだ父に、日下部の唇がフルリと小さく震えた。 「いまさら…命の期限に気が付いた今さらになって、私は慌てて。その溝を埋めようと、離れた心を取り戻そうと、おまえに、富も財産も名声も、全ての遺産を残そうと、必死になった。大切なおまえの人生に、今度こそおまえにしてやれることを全部してやろうと…」 「っ、あ、なた、は…」 「あぁ。それがまた、おまえにとって、まったく喜ばしくない…いやむしろ、迷惑どころか、最大級の嫌がらせにしかならないことだったんだよな」 「っ、あぁ、あぁぁぁ…」 まったく、なんて不器用な、なんてすれ違う2人なのだろうか。 くしゃりと頭を抱えてしまった日下部を、山岡の目がそっと見つめる。 「日下部先生」 静かに名を呼ぶ山岡に、日下部がストンと手を下ろし、その手を胸の前でぎゅっと重ね合わせた。 「嫌いだった。あなたの何もかもが、嫌いだった。なのに…」 ごくりと1つ、唾を飲み込み、深く瞬きをした日下部が、スッと顔を持ち上げた。 「あなたが病気だと…癌だと聞いて、俺は」 そっと開いた拳を、オペに向かうときのように指先を上に向けて掲げ、日下部は嘲るようにハッと吐息を吐き出した。 「笑うなら、笑えばいい。見ろよ、この震え。あぁそうだな。俺は、切れない」 「っ、千洋」 「切れないよ…。だってあなたは…っ」 「千洋」 「これでも大切な俺の父親なんだ…」 ぎゅっと両手を拳に変えて、日下部がはらりと笑った。 「大切だからだ。怖いからだ。俺は、あなたを、まだ、失いたくない」 ぐっと唇を引き結び、震える声を必死で抑え込んだ日下部のそれが、意地や偽りを取り払った、本気の本音だった。 失いたくないと、医者であるがゆえにその命の脆さを知っている日下部の、本気の恐怖が滲み出た声だった。 「日下部先生…」 「っ、頼む。頼む、山岡…」 「はぃ」 「助けてくれ、この人を。どうか掬い上げてくれ、この人の、命を」 「はぃ」 「どうか」 「最善を尽くします」 「っ…」 ぎゅっと固く歯を食いしばった日下部の肩が、ふるりと小さく震えた。

ともだちにシェアしよう!