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第294話

「っ、あなた、癌って…」 医者たちの話や、その雰囲気から深刻性を理解したのか、日下部の母が、幾分か青褪めた顔で父を見つめた。 「あぁ」 「よくないの?」 「あまりな。すぐにすぐ手術をしないと、どうやら死ぬことになるらしい」 「っ、そんな…」 ひゅっ、と息を吸い込んだ母が、そのまま呆然としたように固まった。 「おい」 「なんだ」 「言い方」 両親の会話に、気を取り直したらしい日下部が、ジロリと父を睨んでいた。 「ふっ、どう言おうとも、同じだ」 「そうだけどな、でも」 チラリと母を気遣うように視線を向けた日下部は、フルフルと小刻みに身体を震わせ、俯いてしまった母を、どうしたものかと見つめた。 「はぁっ。あのな、かあさ…」 とりあえず、希望的観測でも述べてやれ、と考えた日下部が、名を呼んだそのとき。 不意にキッと鋭い目をして、日下部の母がガバッと立ち上がった。 「っな…?」 「泰佳さん」 「っぁ、は、はぃ?」 「あなたは、この人を治せるかもしれない、お医者さんなのですね?」 「え?あ、はぃ…」 「では、お願いがあります」 スッと背筋を伸ばし、突然、深く深く頭を下げた日下部の母に、その場にいた全員が、ギョッとなりながら動きを止めた。 「お願いします。助けてください。うちの主人を、千里を、センリグループの頭の命を…っ」 パタリ、とテーブルの上に、一雫の水滴が落ちた。 「助けてください。私の…私の、一番大切な者の、命を…っ」 ぎゅぅっと膝のあたりでスカートを握り締めている母の手が、小刻みに震えていた。 「麗子…?」 いやまさか、と、目の前で繰り広げられている光景を、信じがたいものを見るような目で見つめている日下部の父が、ぼんやりと母を呼ぶ。 「おまえは…」 「っ、妻です。あなたの、センリの頭の、私は、その正妻です」 キッと顔を上げた日下部の母が、強い目をして父を見下ろした。 「見くびらないでいただきたい」 「麗子」 「私は一度でも、あなたを愛していないと、申し上げたことがありますか?」 「っ…麗子」 「私は妻です。私たちの間になにがあろうとも、あなたの身を案じないなどということが…っ」 スゥッ、と静かに母の目から伝い落ちた雫が、顎をたどって、キラリと宙に煌めいた。 「あろうはずがありません」 凛とした、母の佇む姿だった。 父の目が、大きく丸く見開かれ、その目がスゥッとすべてを理解したように、苦しそうに歪む。 「麗子っ…。すまない。すまなかった。私は、私は…」 がばっとソファから立ち上がり、ぎゅっとその母の身体を抱き締めた千里に、日下部の胡乱な目が向いた。 「親のラブシーンとか、気持ち悪いんだけど」 「ま、まぁ、まぁ。でも日下部先生、これが、仮面夫婦です?」 「ふっ、はは。覚えていたのか、その話」 「はぃ」 「なんだかなぁ…。なんなんだよ、って感じなんだけど。だけどおまえが…」 「え?」 「おまえが。この、日下部家全員の、曇った目を覚まさせてくれたのかもな」 クスクス、と可笑しそうに笑う日下部の手が、山岡を優しく抱き寄せた。 「なぁ山岡。俺はおまえを…」 「日下部先生?」 「おまえを、どうしようもないほどに、愛している…」 「っ…」 ぎゅぅぅっ、と強く身体を抱き締められて、苦しそうにしながらも、山岡がとてもとても幸せそうに微笑んだ。 「息子のラブシーンを見せられるのも、さすがに気持ち悪いんだが」 あの弛んだ顔、と日下部の父が頬を引きつらせている。 「ふふ、あらそうですの?お2人のあの満ち足りたお顔。こちらまで幸せな気持ちになりますわよ?」 にこりと微笑む母は、やっぱりどこまでも、強かだった。

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