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第296話

翌日、山岡と日下部は、外来と回診前に、ナースステーションでそれぞれ細かい仕事を片付けていた。 「あ、そういえば山岡先生」 「はぃ?」 「あの人の検査、いつ?」 昨日の出来事はまだ日下部たちだけのプライベートで、千里のカルテは未だ極秘扱いだ。 担当医と限られたスタッフしか見ることのできないその情報を引き出せずに、日下部はふと山岡を振り返った。 「あ、えっと…」 「大丈夫。多分、今日にはもう、情報解禁されると思うから。っていっても、VIPで極秘扱いなのは変わらないだろうけれどね、うちのスタッフくらいには公開されるよ。カンファにも上がるだろうし」 だから教えて?と微笑む日下部に、山岡は小さく頷きながら口を開いた。 「検査予約は、今日入ってます」 「は?え?今日?」 「はぃ…」 「さすがはセンリグループの頭か。どんだけ金とコネを使ったやら」 はっ、と吐き捨てる日下部は、相変わらず父親に手厳しい。 「で?偽名で、身分も隠して?」 「そう聞いています」 「まぁ、マスコミ対策は大事だけど…面倒くさい患者だな」 「お父様ですよ?」 「だから余計に面倒くさい。でも」 「はぃ」 「検査データ、上がったらすぐに見せて」 さらりと何気なく告げた日下部だけれど、山岡には、その声に微かに滲んだ心配が、きちんと聞き取れていた。 「はぃ」 「ん。山岡はさ…」 ふと、日下部が何かを山岡に尋ねかけたところで、ナースステーション前の廊下に人の気配が近づいた。 「っ?!…と…いや、谷野先生?」 「っ、ち…じゃない、日下部センセ。山岡センセも。おはよーさん」 ふ、と谷野らしくなく薄く笑いを浮かべて、ファイル片手に白衣姿の谷野がカウンターの前に立っていた。 「あ、おはようございます…」 「ん。悪いんやけど、これ」 パタン、と持っていたファイルをナースステーションのカウンターに置き、谷野が緩く頬を持ち上げる。 ニカリといつも明るく眩しかった笑顔が、すっかり陰ってしまっている。 「こないだこっちに回すってゆうとった患者のデータ、これだけ抜けててん。すまんけど一緒にしといて」 「あ、えっと、うちに回す患者…?」 「せや。ちぃ…じゃない、日下部センセがわかっとる」 チラリと日下部に向いた谷野の視線は、一瞬後にすぐにフイッと逸らされた。 「ほな」 じゃぁ、と背を向けて立ち去ろうとする谷野に、ふと日下部が椅子から立ち上がった。 「とら!」 「っ、な、んやの…?」 ギクリ、と身を強張らせた谷野が、ゆっくりとナースステーション内を振り返る。 「とら。俺…」 日下部が、何かを言い募ろうとしたところにちょうど、朝カンファを始めるためにか、医者や看護師がざわざわとやってきた。 「っ…やっぱりなんでもな…」 「駄目です、待って。谷野先生。今晩、空いてますか?」 ふと、日下部が諦めてしまおうとしたのを止めて、山岡がカタンと椅子から立ち上がった。 「へ?あぁ、まぁ、空いとるけど」 「それじゃぁ、6時に。職員出入口の外で。来れますか?」 「急患、急変がなかったらな」 「はぃ。日下部先生も。一緒に飲みに行きましょう」 にこりと微笑む山岡に、谷野が「あぁ」と気圧され気味に頷いて、日下部が、なんとも複雑な顔をして頷いた。 「ありがとう、山岡」 「っ、いいえ」 「とら。悪いけど…。話したいことがあるんだ」 「あ、あぁ、わかったわ。ほな、夜な」 じゃ、と手を軽く上げた谷野が、今度こそ病棟を立ち去っていく。 入れ替わるように、ゾロゾロと集まってきたスタッフたちがナースステーション内に揃い、朝カンファが始まった。

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