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第300話
「おまえは…おまえは…っ」
ぐ、と日下部の握った拳に力が入り、小刻みに日下部の肩が震える。
「とら」
唐突に、スッ、と顔を上げ、ピシリと背筋を伸ばした日下部が、ジッと谷野を真っ向から見据えた。
「ごめん」
スゥッ、と綺麗に下げられた日下部の、頭頂部が谷野の丸く見開かれた目に映る。
「ごめん、とら。俺が間違っていた。とらが正しかった。俺はおまえに、とても酷いことをした。言った」
「っ、せやからな、ちぃ…」
「ごめん。許してくれとは言わない。怒っていい。罵ってくれていい。なんなら一発殴ってくれてもいい」
「せーやーかーら」
「俺が、見えていなかった。山岡は強かった。守られているのは俺の方だった。大切にされているのは…俺だった。おまえにも…おまえにも俺はっ…とても大切に…」
ぐぐぐ、と頭を下げて、こつん、とテーブルに額をぶつけた日下部に、谷野の眉がへにゃりと情けなくハの字になった。
「やめいや、ちぃ」
「やめない。正論を言い続けてくれたおまえを俺は信じなかった。それどころか聞く耳も持たず、排除した」
「せやからなぁっ…」
頑なに頭を下げ続ける日下部に、谷野が困ったように山岡に視線を移した。
「はぁっ、山岡センセ。これ、どうにかしてや」
おまえさんの男やろ?と丸投げしてくる谷野に、山岡が「えっ?」と慌てて、ワタワタと動揺している。
「こんなんちぃの取扱説明書、おれは持っとらんねん」
「えっ、えっ、オレも…」
「えぇちゅ~とるやん、なんやねん。どうしろっちゅ~ねん」
いっそ1発殴ったろか、と拳を固めて息を吹きかける谷野に、日下部はジッと顔を俯けたまま、コクンと頭を上下させた。
「はぁっ?どうなっとんねん、これ…」
「さ、さぁ?えっと、その…」
「あほか。殴れるわけないやろが。ったく、似合わんことしてんなや」
「とら…」
はぁぁっ、と深いため息を漏らして、ドサッと椅子に背を預けて仰け反った谷野に、日下部がようやくゆっくりと顔を上げた。
「どうしてもって言うんなら、シオキしてやる」
「とら」
「せやな、罰として、ちぃ、山岡センセのオペ見学、おれにさせろや」
どや、と傲慢に口角を持ち上げる谷野に、日下部の顔がぽかんと呆けた。
「は?」
「コネでも媚でも金でも売って、研修医でもなく新人でもない他科の医師であるおれを、そっちの科のオペ見学に入れろや」
「とら…」
「もうすぐお別れやねん」
「え…?」
にっ、と悪戯っぽく弧を描かせる谷野の目を見て、日下部と山岡の動きが同時に止まった。
「なにを驚いとるん」
「いや、だって、え?」
「なんや。初めから言ってあったやん、期間限定やて」
「っ…それは」
確かに谷野は、日下部たちの病院にやってきたその初日、そう口にしていたけれど。
「ちぃの勤める病院で働きたかった。好条件で空きが出たから、こうして飛びついて転勤してきてんけどな」
「谷野先生…」
「いやぁ、腕のいい医者っていうのは、引く手あまたで困るわ」
「とら?」
「前の病院の系列病院で、欠員が出て、医師不足で困っとるらしいわ。頼むから戻ってくれと、お願いされててなぁ」
ケロッと告げる谷野だけれど、その顔に浮かぶ陰りに山岡と日下部はしっかりと気づいていた。
「そんなん言われたら、戻るしかないやろ。幸いこっちの病院は、おれがいる間に新人鍛えまくって、だいぶ使えるようになったしな」
「とら」
「こっちの病院は、もうおれがおらんくなっても困らんし…」
「っ、とら」
強がりにしか見えない笑みを浮かべて言い募る谷野のそれが、自身を納得させるための必死の言い訳だったということくらいは、山岡にも日下部にも簡単に分かった。
「戻るっていうのは…関西、ですか?」
「せやな」
「っ、そんな…」
そんなに遠くに。
ぎゅっと唇を引き結んだまま言葉を失くした山岡に、谷野がははっと力ない笑みを浮かべた。
「今さらや。今さらやねん。ちぃにいらんて言われて…側におるのももう終わりなんやて思うて…」
「っ、とら」
「もう返事してもうた」
「っ、そんな…」
「せやから、最後に山岡センセのオペの見学、させろや。ちぃが惚れた、最高の外科医の手」
「っ…」
「餞別に贈ってくれるやろ?」
にぃっと笑う谷野に、日下部には頷く以外の選択肢があろうはずもなかった。
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