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第308話
「はぁぁっ、ったく、どんだけ振り回してくださるんですかね、うちの先輩方は」
うがぁっ、と文句を言いながら愚痴っている原は、どうにか午前中の外来を捌ききって昼過ぎ、ようやく出勤してきた山岡と、医局で顔を合わせていた。
「あはは、どうもすみませんでした」
「本当ですよ~、山岡先生。あのクソオーベンもクソオーベンですけど、山岡先生もね?ほら、もうちょっとね?」
「そうですよね。翌日に差し支えないように、お酒も、その、あの、うん、それも、ちゃんと拒まないとですよね…」
「あ~、まぁ、えっと、はい。でも、悪い大部分はあのクソオーベンなので」
「ん?俺がなんだって?」
ふと、音もなく医局のドアを開けて日下部が室内に入ってきた。
「のわっ?!ど、どこから湧い…」
「失礼な。普通に入り口から入ってきただろうが。で?クソオーベン?」
「聞いてるし…。いえっ!言ってませんよね?ね?山岡先生?」
「ん~?」
ほわっ、と無害そうに微笑んで首を傾げる山岡に、原の必死な視線と、日下部の眇められた目が同時に向く。
「庇わなくていいからな?」
「っな、庇って下さいよ!山岡先生。おれっ、午前中、山岡先生の代診、超頑張ったんですからねっ?」
慈悲を~、と喚く原に、山岡がへにゃりと苦笑した挙句、ふいっとどちらとも視線を逸らした。
「えぇっとオレ、午後のカンファの準備しないとならないので」
じゃ、とスタスタとデスクに向かう山岡に、師弟コンビがチラリと目を見合わせる。
「逃げたな」
「っ、見捨てないでくださいよぉ、山岡先生」
さらりと保身に走った山岡が仕事を始めた横で、またも原が日下部に盛大にイジられていた。
そうして、午後。
日下部が言っていた通り、消化器外科単独の、重要カンファが、カンファレンスルームで開かれていた。
患者情報をスクリーンに映しながら、説明をしているのは山岡で、単独カンファと言っても、参加しているのは、光村部長以下、医師はベテラン医師と山岡と日下部、そして原。看護師は、師長とその師長が選んだナース2名の、少人数でのカンファレンスだった。
『あ、あの、おれ、このメンバーの中に、参加してよかったんですか?』
ひそひそと、何故か日下部にこの重要カンファに連れてこられていた原が、そうそうたる顔ぶれに尻込みして、日下部に囁いていた。
「ん。聞いていれば分かる。きみのメンバー入りは、俺の希望だよ」
ふっ、と笑う日下部に気づいて、山岡がチラリと資料から視線を上げた。
「病状の説明、治療方針、オペ方法は以上の通りですが…それに加えて、1つ」
コクン、と頷いた日下部に、山岡もコクリと頷き返して、ゆっくりと口を開いた。
「こちらの患者さんですが、特別室での入院加療、厳重なプライバシー保護と、情報管理をお願いいたします」
山岡の発言に、スタッフは、この少人数が集められた意味が分かっているため、大して驚きはない。
けれども、続く山岡の言葉に、光村、日下部、師長以外のスタッフが、途端に騒めくこととなった。
「この方は、ある大企業の社長をされていて、マスコミや社外に病気のことが漏れるとまずい立場にあります。そのところをご了承いただいて…」
「なるほど」
「患者様の情報を開示させていただきます。お名前は、日下部千里さん。センリグループの総帥をなされています。そして、日下部先生の…お父様です」
「っ…」
「え…?」
「嘘だろ…?」
ドヨッとどよめいたカンファレンスルーム内の空気が、一旦落ち着くまで待とうと山岡が黙る。
ざわざわと顔を見合わせ、日下部を気にするように目を向け、動揺をあらわにしまくるスタッフの中で、さらに1人。
派手な動揺を顔の全面に表した原が、すべてのざわめきを割って、一掃するような大袈裟な叫び声を上げた。
「はぁっ?アンタ、大企業センリグループの、御曹司だったんすか~っ?」
どうりで…と呟いている原に、みんながピタリとざわめきを収めている。
唖然と口を開けた山岡と、苦笑を浮かべた光村の顔も見える中で、ただ1人、日下部だけが、クスクスと可笑しそうな笑い声を上げていた。
「きみ、そこ?」
堪え切れない、といった様子で、声を立てて笑ってしまっている日下部に、他のスタッフの気が緩む。
「本当、さすがは、原先生だよね」
ふふ、と笑ってしまう日下部に、原がキョトンとなり、山岡がふわりと微笑んで、他のスタッフみんなが、呆れたように苦笑を浮かべた。
「まぁ、そうだよな。この患者が何者でも、おれたちは全力で病気を治すだけだ」
「下手な同情はしませんよ、日下部先生」
「ですね。この方が、同僚のお父様であっても、なくても、我々は我々にできることをするまでです」
とても楽観視できない病気で、それが同僚の身内と知って騒めいた室内が、いつの間にかすっかりと冷静さを取り戻している。
「うん、俺の目に狂いはなかった」
「はぁっ?え?」
「きみのメンバー入り。正解だ」
「はぁ、あの…?」
「きみは、この病状の患者が俺の身内だと知って、そのことによる少しの焦りも動揺も浮かべなかった」
「っ、それは…」
「患者を、ただ掬い上げるべき1つの命として見る。きみのその真っ直ぐな医師としての姿。俺は、とても尊いと思っている」
にこりと微笑む日下部に、原の目がまん丸く見開かれていく。
「これでも俺は、きみのそういうところ、とても買っているんだよね」
クスクスと笑う日下部に、原の目が限界以上に見開かれ、その頬がカァァッと朱色に染まっていった。
「さてと、それで、みなさん。とりあえず、そういうことですので」
パクパクと、言葉を失くして固まっている原を置いて、日下部がスッと椅子から立ち上がった。
「俺の父だからと、特に遠慮はなさらずに、よろしくお願いします」
「はい」
「任せて下さい」
「まぁ主治医も執刀医も山岡先生なんですよね?」
ペコリと頭を下げた日下部に、スタッフたちの声が次々に掛かる。
「はい。身内切りはタブー…とまではいきませんが、俺にはやはり父を切ることはできません。治療方針に関するこのカンファや、病状把握も冷静にできているとは思っていますが、あまり自信はありません。少なからず、身内としての感情による目の曇りや動揺があるのは否定できない」
「日下部先生…」
「主治医、執刀医は、山岡先生にお任せして、そのフォローを光村先生とみなさん、そして原先生に頼みます」
素直に自分の力量を述べる日下部に、この場のスタッフはきちんと理解を示す。
「患者の身内が同僚で、やりにくいところはあるかもしれませんが…山岡先生、みなさん、どうか、よろしくお願いします」
ふわりと微笑む日下部に、はぃ、と山岡が力強く頷いて、周りのスタッフもみんな、同じようにコクコクと顎を引いていた。
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