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第310話
そんな日から数日。
ふと、手術終わりに向かった休憩室で山岡は、またも里見と遭遇していた。
2人の他に人影はなく、ドアをくぐった山岡の目線の先、自販機の前で、ぼんやりと佇んでいる里見が見える。
ゆっくりとそちらに足を向けた山岡は、ふと、その里見の足元に、バシャリと茶色の染みが広がっているのを見つけた。
見ればそこには買ったばかりと思わしきカップも1つ転がっている。
「あ、えっと、里見先生?」
そろり、と側に近づいた山岡に、里見がハッとしたように顔を上げた。
「あっ、山岡先生っ。やだ、私、ごめんなさい」
慌ててしゃがみ込み、多分落として溢してしまったのだろうカップを細い指先が拾い上げる。
「いえ…。あの、大丈夫ですか?」
雑巾は…と、部屋の隅の方に設えられている流しを見ながら、山岡がそちらへ向かった。
「本当、すみません。ちょっとぼーっとして、手を滑らせちゃいまして」
床を拭くものを取ってきた山岡に、恥ずかしそうにへらりと笑った里見を、山岡は難しい顔をして見下ろしていた。
「手を、滑らせた…?」
「あ、はい。私結構ドジで。こういうの、よくやっちゃうんですよね」
この間も、と笑う里見に、けれども山岡の顔はにこりとも笑顔を返さなかった。
「あ、の、山岡先生?」
「里見、先生」
「っ、は、はい。あの、どうしました?」
ジッと見え難い表情の中で、真っ直ぐに里見を見つめてくる山岡の視線に、里見が怯む。
ぎこちない笑みを浮かべながら、コテン横に倒された頭が、困ったように山岡に向いていた。
「山岡先生?」
「っ…里見先生」
「はい」
「違ったらすみません。それに、オレは神経内科や脳外科は専門外なんですけど」
「っ!」
そろり、と口を開いた山岡に、ヒュッと短く息を呑んだ里見の、その反応こそが、山岡の確信に繋がる証だった。
山岡が、力を得たように、スッと背筋を伸ばす。
「里見先生、もしかして、手や足が動きづらいとか、ものを持つとすぐ疲れてしまったり、力が入らなかったり…そういうことが、度々あるのでは、ない、ですか?」
窺うように尋ねた山岡に、里見が、くしゃりと顔を歪めて、フルフルと首を振った。
「そんなこと…」
「ありませんか?」
ジッと真意を問うように見つめてくる山岡の視線に、里見はきゅっと唇を噛み締めて、そのあと諦めたように深く息を吐いた。
「はぁっ。先生には、隠せませんか」
あはっ、と笑う里見が、降参、と両手を上げて、ゆっくりと頷いた。
「おっしゃる通りです。2か月くらい前から、小さな違和感が」
「っ…里見先生」
「初めはうっかりものを取り損ねたり、小さな段差で躓いてしまったり。でもそんなの、私の不注意や、ちょっとした運動不足だからって、そう、思っていて」
「……」
「だけど…それだけじゃ説明がつかないようなことが、何度もこの身体に起きるようになっているのも事実で…それを自覚もしていて」
ふわりと儚げに微笑んだ里見を、山岡が痛いものを見るように見つめていた。
「なんていうのかな。突然こう、フッと手から力が抜けてしまう感じがしたり…足が1歩も前に動かせなくなってしまったり」
「里見先生…」
「やっぱり普通じゃないですよね。気づいちゃいますよね…」
「そ、れは…」
「騙し騙しいくのも…そろそろ限界かな…」
「里見先生…」
あは、と笑う里見が、握った手の中のカップを震わせた。
「怖いんですよねー、確定診断…」
「それは…」
「してるんです。筋肉の問題かなー?とか、疲れかな、とか…。血液検査や整形にはかかってみて…」
「里見先生…」
「でも、1つ1つ、考えられる疾患が否定されていく…」
ぐっと言葉を詰めて、苦痛を堪えるような顔をしながら告げた里見を、山岡はただ静かに見つめていた。
「ねぇ、先生。私…」
消え入りそうな声で。小さく震えながら囁かれた1つの病名。「そう、なのかなぁ?」と吐き出された、難病とされるその病の名を口にした里見に、山岡はふらりと俯いて小さく首を左右に揺らした。
「オレは…専門ではないので、何とも言えませんが…。だけど」
「はい」
「検査や診断は早い方が」
ぐっと息を詰めて、キッと顔を上げ、里見を見つめて真摯に告げる山岡に、里見は不自然なほどに明るく笑った。
「ですよね~。神経内科…。うちにもあったなぁ」
「はぃ」
「でも、院内はやだな」
あはっと笑う里見が、不意にゆるりと山岡に視線を定めた。
「ねぇ先生」
「っ、はぃ…」
「付き合ってもらえませんか?」
「えっ?はぃ?」
「1人で、検査を受けるの、怖いんです」
「……」
「その結果を1人で受け止めるのが怖い」
縋るように、怯えに揺れた瞳を向ける里見に、山岡は小さく眉を寄せた。
「あっ、ほら、先生、私の症状に気づいちゃったわけですから!運の尽きだったと思って…」
「里見先生…」
「受診…検査…一緒に…」
付き添って下さいよー、と笑う里見のそれが、空元気だということくらいは、山岡にも分かっていた。
「オレで、いいんですか?」
家族や友人とかの方が、と言う山岡に、里見はにっこりと微笑んだ。
「先生がいいんです。逃げてた私のコレに気付いちゃって、逃げ道を断つような指摘をしちゃった先生ですからね」
「でもオレたちまだ…」
知り合ったばかりで、と言い募っても、里見はそんなこと、と笑い飛ばした。
「だって見て見ぬ振りもできたことです。それでも山岡先生は、言ってきたでしょう?私に。それを信頼しないなんてこと、あるわけあります?」
「それは…」
「ふふふ、私の迷いを切って背中を押した、先生に決めました。ロックオンです」
「はぃ?」
「相談相手。さぁ、ほら、PHS出して下さい」
「あの、里見先生?」
「個人携帯とか図々しいことは言いません。でもPHSくらいならいいでしょう?」
連絡先、と言う里見に、山岡はふらりと医療用のPHSをポケットから取り出した。
「ふふ、ありがとうございます」
「あ、う、はぃ…」
割り当ての番号を告げた山岡に、里見の嬉しそうな笑顔が向く。
「あと、1つだけお願いがあるんですけど」
「何ですか?」
「この話…なるべく他の人には言わないで欲しいんです。少なくても確定するまでは、誰にも…」
不安げに、小さく上目遣いをする里見に、山岡は優しく安心させるように頷いた。
「いたずらに他言はしません」
「ありがとうございます」
ふわりと微笑んだ里見に、山岡はストンとPHSをポケットに滑り落とした。
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