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第312話
そんな、平和で呑気で穏やかな日々が、ゆっくりと続いていく…ことが理想だけれど。
2人の前には今日もあれやこれやと厄介な病人が、次々と現れるのもまた常だった。
「日下部先生のお父さん、入院なされたんですって?」
くるーっと医局のデスク、自分の椅子を座ったまま回転させた原が、タブレットを大真面目な顔をして睨んでいる日下部の方を向いた。
「ん…?って、きみねぇ。なに。飽きたの?」
さっきまで原も原で、デスクのパソコンを使って、真剣になにかの仕事をしていたはずなのに。
今はやけに退屈そうに、椅子に両足を持ち上げて、くるくると回転させている。
「集中力の限界を突破しました~」
へらりと笑う原の目の下には隈が浮き、目が虚ろだ。
「はぁっ、なに、その顔。また徹夜?」
「えへへ~。だぁって書類仕事、終わらないんですもん」
やってもやっても湧いてくる、と遠い目をする原に、日下部は困ったように苦笑した。
「そんなに無理なほど渡していないはずだけど」
「あ~、まぁ合間におれが勝手に自分の予習復習や勉強を挟んでいるからですからね」
「なるほど。勤勉なのはいいけれど、それで仕事が追い付かなくなって、ついでに体調管理も疎かになるようなのはいただけないよ?」
コツンと頭をぶつ仕草をする日下部は、嫌味で意地悪だけど、しっかりと思慮のあるオーベンだ。
その注意という名の心配をきちんと受け取った原は、くしゃりと顔を歪めて頷いた。
「分かってます。気を付けます」
「ふふ、もしもぶっ倒れようものなら、問答無用で栄養剤ぶち込んでやる」
「うげぇ。そこは優しく、栄養たっぷりの弁当でもくれてやる、とかじゃないんですか~?」
見ましたよ、山岡先生の、と笑う原に、日下部が嫌そうな顔をした。
「なんできみに俺が手料理なんて」
「はいはい。恋人限定ですよね、アンタの優しさは」
「悔しかったらきみもいい人見つけたら?」
にこりと笑う日下部の、その言葉は完全なる意地悪だ。
原の息抜きに、手元のタブレットを置いて乗った日下部が、壮絶な目をして微笑んだ。
「はぁっ、それが叶うんならな~。あぁ、癒されたい。玲来さん、おれの天使」
ぼんやりと、遠い目をして呟く原を、日下部が気持ち悪そうに見つめる。
「きみのじゃないだろ」
「そうなればいいな!っていう願望です。ねぇ日下部先生。薬剤部になんかお使いないですか~?」
おれ行きますよ!と突然気合の入った声を上げる原に、日下部の目が恐ろしく胡乱なものになった。
「あるわけない」
「ちぇ~」
「クスクス、じゃぁ代わりに、これをあげよう」
「へっ?」
バサッと分厚いファイルを何冊か原の机に積み上げた日下部に、原がガタンッと椅子を揺らして足をずり落とさせた。
「な、なんですか、これ」
「新患さん。2名分だけど。両方きみの担当にしようかと」
「マジですかっ?やるやる、やりますっ」
日下部の言葉に一転、わーい、と喜び勇んで飛びつく原は、患者を任せてもらうのが嬉しい、ひょっこ研修医だ。
経験を積ませてもらえるチャンスには一も二もなく飛びつく。
「さてさて、一体どんな…って、日下部先生、これ、3人分あるみたいですけど?」
ドサドサとファイルを仕分け始めた原が、ふと1冊の資料を手にして首を傾げた。
「ん…?」
「え。待って下さい?おれ、こんな難易度高いの、厳しいですよ?」
「あ~?」
なんか混ざってた?と原の手元を覗き込もうとした日下部が、瞬時にそのファイルの中身を察して、小さく苦笑した。
「あぁ、それね」
「小腸移植のドナー待ち…の上に、肝移植の必要も?」
「あ〜うん。大学病院へ、っていう話もあったらしいんだけど、どうしても近くで、移植医療の可能な病院を探してうちだったみたい」
「うち…って、簡単に言いますけど、これは」
「まぁね」
「おれでも分かりますよ?そんな難しいオペ…」
「そ。だから山岡先生に相談待ち。こんなん切れるの、あいつしかいないだろ」
「あー、それで」
「うん。一応カンファにも出すけどな。切れるとなったらその旨患者さんに伝えて…」
「転院、ですか」
「うん。とりあえず先に山岡に見せようと思ってて。ごめんな」
混ざった。と苦笑する日下部が、ひょいと原の手からそのファイルを奪っていった。
「ふぁ~、山岡先生って、本当すっごい」
「だろ?」
「って、なんでアンタが得意げなんですかねぇ」
「別に?」
「っていうか、それ見ちゃうと、おれにくださったこっちの2件。この程度が切れなくて何が外科医か、って感じですよね~」
計算ですか?と笑う原に、日下部が呆れた目を向けた。
「差などない」
症状に重い軽いはあっても、その命の重さに差異はない、と言い切る日下部に、原はへらりと微笑んだ。
「分かってます」
有難く担当させていただきます、と恭しくファイルを掲げる原に、日下部がクスクス笑いながら「よろしく」とエールを送っていた。
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