313 / 426
第313話
「あっ、山岡先生、ちょうどよか…っと」
ふと、病棟の廊下を歩いていた日下部は、その先に山岡の姿を見つけて片手を上げた。
けれど、その山岡がPHSで通話中だと気が付いて、言葉を止める。
山岡は何やら真剣な顔をして、眉間に深い皺を刻んでいた。
(なんだろ?)
深刻そうに顔を歪め、声を潜めている様子の山岡に、日下部の首が傾く。
その気配を察知したのか、山岡がゆっくりとそちらを振り返り、「あ」の形に口を開いて、日下部の姿を発見した。
『あ~、悪い』
電話中邪魔した、と口パクだけで告げながら、目の前に立てた片手を持ち上げる。
小さく口角を上げた山岡が、フルフルと首を振って、「では、夕方」とPHSに向かって告げて、通話を終わらせた。
「すみません、日下部先生。何かご用ですか?」
ピッと切ったPHSを、白衣のポケットにストンと落としながら、山岡が首を傾ける。
ゆっくりと何気ない表情に戻っていく山岡の顔を、黙ったままジッと見つめてから、日下部がふっと表情を緩ませた。
「あぁ、いや、あの人が入院してきたから。伝えようと思って」
「あの人?あぁ、お父様」
「うん。さっきちらっとこっちに顔を出して、その後そのまま上に行った」
「上」と言って、山岡や日下部に通じるのは、特別棟にあるVIPルームのことだ。
「そうですか。分かりました。また後で主治医としてご挨拶にいかせてもらいますね」
「うん。よろしく頼む」
にこりと微笑んで、軽く頷く日下部が、何気ない仕草でチラリと山岡のポケットを流し見た。
赤い医療用のストラップを束ねて結び、ポケットの中に完全に隠れているPHSの膨らみだとわかる、少し不格好になった白衣のそのポケット。
山岡が、先ほど誰かと通話して、ストンとそこに落とした、何の変哲もない、業務用に割り振られたただのPHSが入っているポケット。
何でもないそれなのに、それが何故か、やけに日下部の意識を刺激する。
「山岡…」
ぽつりと落ちた呼び声に、山岡がコテンと首を横に傾けた。
「はぃ?」
(誰と通話していた?)
聞けばいい。ただそう一言尋ねてみて。
どうせ看護師の誰への指示ですだとか、検査室の予約を少々だとか、そんなたわいもない業務連絡の話が返って来るのを聞けばいい。
聞けばいいだけなのに。
何故かその一言が、どうしても口から零れなかった。
「日下部先生?」
ぽつりと名を呼んだまま黙り込んでしまった日下部を、山岡が不思議そうに見つめる。
その目を探るようにジッと見つめてから、日下部はふぅーっと息を吐いて、「なんでもない」とにこりと笑った。
「日下部先生…?」
「本当、何でもない。あ、それより山岡先生。医局戻る?」
ふわりと首を振って、本当に自然ないつもの表情になってしまう日下部に、山岡は首を傾げながらもコクリと頷く。
「はぃ。ちょっとデータを確認したいことがあって」
「そっか。じゃぁちょっとそこで、俺も1つ、おまえにみてもらいたい資料があるんだ」
行こう、と足を進める日下部に、山岡がパッと隣に並んだ。
「日下部さん…どんな様子でした?」
「ん?まぁ、相変わらずの、社長様って感じだったよ。病人、って雰囲気は微塵も感じさせてなかったな」
「そうですか」
「俺にも軽く会釈しただけ。ま、あの人らしいけどね」
「そうですか。ついに治療ですね」
「あぁ。放射線で上手く縮小して、綺麗に切れるといいんだけどな」
「はぃ。全力を尽くします」
テクテクと廊下をいきながら、のんびりと会話が交わされる。
「それで、日下部先生の資料っていうのは?」
「ん?あぁ、ちょっとセカンドの患者さんなんだけどな」
「難しいやつです?」
「かなり」
ぽつぽつと会話を続けながら、2人分の足音が医局の前まで続いていった。
ひらりと翻る日下部の白衣の裾だけが、やけに重たく何かを引きずったような気がした。
ともだちにシェアしよう!