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第314話

モグモグと、昼食のパンを咀嚼しながら、山岡がペラリと手元の資料を捲った。 先程まで、随分と時間に余裕がある、病棟待機のはずだったけれど。医局でのんびり仕事をしようとしていたところに、救急からヘルプの連絡が来てしまった。 午前の勤務時間だけでは処置が終わらず、昼休憩の時間に突入してからも、つい先程まで患者の処置に当たっていたのだ。 危うく食いっぱぐれるところだった昼食を、今は医局で書類仕事の片手間、腹に押し込んでいるところだ。 「ふっぇ、これは本当に…」 うーんと顔をしかめながら、山岡が日下部に渡されていたファイルを眺める。 難しいな、と呟く声が、静かな医局にポツリと落ちた。 ガチャッ。 「あ、山岡先生。お疲れ」 緑のスクラブにバサリと清潔な白衣。ひらりと裾を翻した日下部が、不意に医局のドアを開けた。 ファイルから視線を上げた山岡が、そちらを振り返る。 「ふ。ふははへへんへい、ほふはれはまれす」 もごもごと、口いっぱいにパンを溜め込んだまま、山岡がペコリと頭を下げる。 「ぷっ…おまえね。ちゃんと飲み込んでからしゃべりなさい」 「ん、ぐ。ふぁ、すみません」 ごくん、と音がしそうな勢いでパンを飲んだ山岡に、日下部が目を細めて笑う。 「ったく。余所事考えながら食事をしていると、喉詰まらせるぞ」 チラリと山岡の手元を見た日下部は、仕事片手間に食事をしている山岡の現状を一瞬で理解する。 いつもなら、口にものを入れたまましゃべるなんて無作法なことをしない山岡を知っているから、いかに資料に夢中でその他のことが上の空だったのか、丸わかりだ。 「すみません」 「いいけどな」 詰まらせたら俺が人工呼吸してやるよ、と悪戯っぽく笑う日下部に、山岡の頬が瞬時に朱に染まる。 「そ、挿管してくださいっ」 「ぶっ。そこで、詰まらせませんよ、とは言わないのか」 あぁ可笑しい、と笑う日下部に、山岡はハッとしてますます頬を赤くする。 「まったく。そんなに悩ませる案件か~」 やっぱりなぁ、と呟く日下部は、山岡に渡した資料の難易度を良く知っている。 「肝臓の方。生体肝移植だけでも、結構難しいオペになりますよね。それを小腸と同時移植となると…」 きついです、と困ったように微笑む山岡に、日下部は静かに頷くしかない。 「ドナーさんは見つかっているんですか?」 「一応、検査するという方はいるらしい。ただ、このオペをしてやるという医師が前院にはいないから」 「話は進んでいない、と。はぁ…」 「できない?」 「……」 うぅん、と眉を寄せて考える山岡の横顔を、日下部がジッと見守る。 「小腸は…?日下部先生も、こっちは脳死小腸移植…を考えていますよね?」 「小腸グラフトの長さとか、血管グラフトを考えるとなぁ。同時で生体を選べと言われたら、厳しいと答えるしかないよ、俺は」 同時の上に、生体移植。その難易度がどれだけ跳ね上がるか、山岡にも考えるまでもなく分かっていることだった。 「はぃ。うん~…」 くるくると、視線を巡らせる山岡の目が、その場の景色を映し出していないことが、明らかだった。 脳内でオペのシミュレーションを、数多の数値と論文を、そして自分の持て得る技術を思い浮かべ、必死に計算している様子が手に取るように分かる。 「どう?」 「やらなければ、亡くなります」 「そうだな」 「やれる可能性はあります。やれる」 ぐっと自分の手を握って、ゆるりと開いて、山岡はその手のひらをジッと見下ろす。 「やれます」 きゅっと唇を引き結び、ぐっと一つ深く頷いて、瞳を閉じて精神統一するような仕草を見せた山岡に、日下部がそっと小さく息を吐いた。 「おまえに出会えたことが、幸運だ」 「いえ…。ドナーが見つからなければ」 このまま運命は変わらない。 運を幸と呼ぶのはそれからだ。 この患者の運命は、それに掛かっている。 「順位はかなり高いそうだよ。技術を持つ医師がいれば、後はドナーを得るだけだ」 生きられるという希望への可能性が跳ね上がる。 「っ、残酷な願いなのは百も承知です。それでも」 「あぁ」 静かに目を伏せた山岡が、ゆっくりと髪を掻き上げ、真っ直ぐに前を向く。 「では、カンファにかけて、オレたちの見解を。同意が得られれば、患者さんへの診察、説明をしましょう」 「同席する」 「転院を決めていただけるようならば、主治医執刀はオレが。それでいいですか?」 「そうだな。俺も担当医にはしてもらう」 「分かりました」 真っ直ぐに。その手の届く範囲にある、病に苦しむその人の命を。 掬い上げて、抱え込んで。山岡は、強く瞳を光らせた。

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