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第315話
「ふわぁ、それで山岡先生、やっぱりやるですって?」
「ま、あいつならそう言うだろ」
当然の結果だ、と小さく微笑む日下部は、ただ今、原しかいない医局内をぐるりと見渡した。
「ところで、その山岡先生は?」
午後は確かそれほど難しくはない手術が一件。他の予定は入っていなかったはずだ。
山岡の腕ならば、その手術はもうとっくに終わっているはずの時間。
「さぁ?さっき1度、なんかパソコンにデータ打ち込みに来ましたけど、すぐにどこかに行っちゃいましたよ?」
「急患、急変の連絡とかは?」
「聞いてないです」
トイレか休憩か上じゃないですか〜?と呑気にのたまう原に、日下部の表情が思案顔になる。
「うちから午後遅めで、検査室にオーダーが出ているものは…」
ふと立ち上げっぱなしになっている、医局の壁際のデスクトップに向かった日下部が、タタンッとキーボードを叩く。
「ない、か…」
1つ消えたな、と呟きながら何かを思案する日下部を、原がチラリと眺めて、手元の書類に視線を落としていった。
「よし。ちょっと上行ってくる」
何かあったら鳴らして、とPHSを振った日下部に、原の「は~い」と間延びした返事がかえる。
「あ、ちなみにそこ、誤字」と、原が話し片手間で片付けていた書類の一箇所を指差して微笑みを残して行った日下部に、原の目がクワッと見開いた。
「だぁっ、マジだ。はぁぁっ、あの人、本当、化け物並みの処理能力…」
あの状況で、見てたのか、と、感心よりも空恐ろしさを感じてしまう。
しかも横から覗いた程度で、原ですら見落としていた誤字を指摘とは。
「こっわ…」
山岡、山岡、山岡、と、色ボケまくっているオーベンかと思いきや、仕事はこの上なく完璧だ。
「はぁっ。だから敵わないんですよね〜」
一分の隙もない日下部を思いながら、原はやらかしてしまった誤字を、ピッピッと二重線で消しながら、苦笑とも溜息ともつかない吐息を吐き出した。
カタン、と小さな音を立てて、山岡は連絡通路の先にある非常階段への扉を開けていた。
日下部や原があれやこれやと予想していたのとは、どれとも違う場所。
吹き上げる風にバサリと白衣の裾を煽られて、山岡は、両目を薄く細めた。
そこに待ち人の姿はまだない。
「ふぅっ…」
小さく吐息を落としながら、山岡は、ヒラヒラと白衣の裾を弄ぶ風に、身を任せていた。
ふと、キィ、と小さな音が風に乗り、背後の扉が開いたことに気がついた。
ゆっくりと振り向く先に、ひょっこりと顔を出した里見の姿が見える。
「あ…」
「こんにちは。お待たせしてしまってすみません」
にこりとした微笑みを浮かべながら、ぴょこんと軽やかに非常階段へ出てきた里見の髪が、ふわりと風に流された。
「ひゃぁ!風っ。思ったよりも強いですね」
「そう、ですね。ビル風ですか?想像より、吹いてますね」
「ごめんなさい。寒かったでしょう?」
「いぇ。それほどでも」
むしろ空調完備の院内にこもっていた身体には、自然の空気が心地いい。
「ふふ。本当に、お優しい」
「え?」
「天使かな、って」
「え?あの、里見先生?」
「今。その扉から出てきた瞬間。真っ白い白衣の背中が、風にパタパタして、天使の羽みたいで。流れた髪の間から見える横顔が、あんまり綺麗で」
ふわりと風に靡いた髪をするりと耳に掛けて、里見が鮮やかに笑った。
「だけど、そんなわけがなかった」
「っ…」
「先生…。私、検査の、結果ね…」
「はい」
ごくりと喉を鳴らし、山岡が里見のその目を真っ直ぐに見る。
『………』
囁くような、口パクに近い小声で告げられたその病の名前。
ザァッと強いビル風が吹き下ろす。
ひゅっと息を吸い込んだ山岡の、頭の中を、里見が口にした難病の名が支配する。
ゆっくりと脳内を巡ったそれが、静かに山岡の中に浸透する頃、里見の鮮やかな笑みが、哀しい泣き笑いに変わった。
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