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第319話

       * 「はぁっ…」 「……」 「はぁぁぁぁっ…」 ギシッと事務椅子を軋ませて、原が何度目とも分からない溜息を吐き出していた。 特別室にも山岡はいなかった、と言って、医局に帰ってきた日下部が、自分のデスクで検査データを眺めている。 その隣で先ほどから何度も繰り返される溜息に、とうとう痺れを切らした日下部が、ギロリと鬱陶しそうな視線を向けた。 「さっきからそれ、うるさいんだけど。なんなの」 冷ややかな声と冷たい視線。それにも怯まず、原は性懲りもなく派手な溜息を漏らす。 「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」 「だからっ!なんなの。うるさい」 ついにプツンと切れた日下部が、バンッと医局のデスクを叩いて、くるりと原に向き直った。 その怒声とギロリとした鋭い日下部の目を軽く受け流し、原がハッと小さな嘲笑を浮かべた。 「なに?」 ぎゅっと眉間にしわを寄せた日下部をチラリと見てからフイッと視線を逸らし、原は再び「はぁぁぁっ」と深い溜息を落とした。 「っ…。なんなんだ、きみは」 「べぇっつにぃ?アンタは呑気だな~って」 「はぁ?」 「それで?特別室にいなかった彼氏さん、見つかりましたか?」 ん?と目を上げた原に、日下部は怪訝な表情を浮かべながらも、フルフルと首を振った。 「いや。どこにもいなかったけど…」 「でしょうね~」 「でしょうね、って。なに?きみ、何か知ってる…」 「の?」と、ガチャッと医局のドアが開く音は、ほぼ同時だった。 「お疲れ様です」 ひょっこりと医局に戻ってきたのは、話題の人、山岡だった。 咄嗟に2人がそちらを振り返る。 「へ?え?あ、なんか、どうかしましたか?」 注目を浴びたことに一瞬怯みながらも、不思議そうに首を横に倒した山岡に、原がフイッと視線を逸らして、日下部が薄く目を細めた。 「いや。おかえり」 「はぃ、ただいまです」 ジーッと山岡の全身を上から下まで眺めてから、日下部がにっこりと微笑む。 「どこ行ってたの?」 何気なさを装って問いかけた日下部に、山岡は持っていたファイルをひょいっと掲げて見せて、ゆっくりと自分のデスクに向かって歩き出した。 「検査室です。ちょっと追加のデータで、直接聞きたいことがあって」 「そう」 「なにかありました?」 「いや。上かと思って行ったら、いなかったから」 ただそれだけ、と告げる日下部に、山岡は「そうですか」と気に留める風もなく受け答える。 自然な山岡に、日下部はチラリと原に視線を投げた。 『う、そ、つ、き』 パクパクと、原が声なき声で口だけを動かしているのが見えた。 怪訝な思いで、山岡を窺う。 「なぁ山岡。データって、なに?」 我ながら詮索がましいな、と思いながらも、日下部は思わず試すように聞いてしまう。 けれども山岡は、何も気にした風もなく、きょとんと口を開いた。 「あぁ、日下部さんの検査データです。そうだ、見て下さい、これ」 ふと、何かを思い出したように、今手にしていたファイルを持って日下部のデスクまで回り込んだ山岡が、嬉しそうに声を弾ませた。 「なに?」 「ほら、ここ」 パラリとページを開いてみせて、データの数値をトンと指さす。 示された箇所を見下ろした日下部の目が、ゆっくりと見開かれた。 「え…?これ、ミスじゃなくて?」 「ですよね。オレも疑問に思って、だから今聞きに行ってきていたんです」 「え…だってこれ、改善してない?え?」 「そうなんです。微妙にですけど、数値が回復していて」 すごいでしょう?と微笑む山岡に、日下部がコクコクと頷いた。 「きっと、日下部さんが、治療に前向きになってくださったから」 「ふむ…」 「生きてやる、って気持ちが、きっと」 にこりと笑う山岡に、日下部が「あ~」と微妙に遠い目をして天井を仰いだ。 「そういえばあの人」 「え?」 「仕事。馬鹿みたいに病室に持ち込んでたな」 「あぁ…」 特別個室であるのをいいことに、大量の書類やファイル類、ノートパソコンにタブレットを持ち込み、室内を散らかしていたのを見咎めてきたのはついさっきの話だ。 「おまえ、あれ、許可したの?」 「あ、えっと、まぁ、はぃ」 「尋常じゃない量なんだけど。治療に専念しろ、って怒るところじゃない?」 あれじゃぁ完全に社長室の分室だ、と苦言を漏らす日下部に、山岡はへらりと誤魔化し笑いを浮かべた。 「まぁ、あの、その、あぁやって仕事を取り上げないでいることが、日下部さんの生きる力になるのかな、って…」 「ふむ…」 「現に数値の回復が見られますし。止める理由はないかな、と」 「そっか」 「はぃ。でも、体調や数値を見極めて、休んでいただくときは休んでいただくようにします」 「ん。おまえが主治医だしな。分かった。任せるよ」 よろしく頼む、と微笑む日下部に頷いて、ファイルを自席に戻した山岡が、そのままふらりと壁の時計に目を移して、コテンと首を傾げた。 「あ~、そろそろ回診行ってきます」 「はいはい。いってら」 コクンと頷いた日下部が、医局を出て行く山岡を見送った。 その日下部が、くるーっと椅子を半回転させ、山岡を見送ったドアから原に視線を戻す。 「で?」 「え?」 「ふん。山岡の今の話。嘘じゃない」 ツン、と確信的に言う日下部に、原の顔がぐにゃりと歪んだ。 「あいつ、嘘をつくときは笑えるほど分かりやすいよ。でも今の話は、1つも嘘をついてなかった。山岡は本当に検査室に行っていた」 晴れ晴れと断言する日下部に、原がふるりと唇を震わせた。 「でもですねぇ…」 「何。まったく。きみが何を知っているのかは知らないけどね、きっと、きみの勘違いとか誤解とか、そういう類だよ」 変に引っ掻き回して何の得があるんだか、と呆れた顔をする日下部に、原がタンッとデスクに手をついて立ち上がった。 「でもっ、おれっ…」 「はぁっ…」 「っ、っ…。トイレ!」 「は…?」 「トイレ、行ってきます!」 キュッと踵を鳴らして唐突に駆け出した原に、日下部がキョトンと固まる。 「はぁぁぁっ?」 バタンッと派手な音を立てて医局を飛び出していった原を見送って、日下部がぽつりと呟いた。 「いや、そんな大宣言していかなくても…」 トイレくらい勝手に行け、と呆れる日下部は、シーンとなった医局の中、ストンと手元の検査データに視線を戻した。

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