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第320話

そうして、回診に出た山岡をおもむろに追いかけた原は、ちょうど奥の個室の訪問を終えて廊下に出てきた山岡を捕まえていた。 「山岡先生っ」 「え?あ、原先生。どうしました?」 「っ…山岡先生、ちょっとお話があるんですけど!」 「はぃ?何ですか?」 キョトンと首を傾げる山岡に、原がぐいっと迫った。 「さっき!」 「はぃ」 「さっき、検査室にいたって話…してましたけどっ」 「え?あぁ、はぃ。それがなにか…」 ぐぐっと距離を詰める原に、山岡はぽやんとしながら不思議そうな顔をしていた。 「嘘ですよね?」 「え?」 「嘘でしょう?」 「な、にを…言って」 「だって見たんです。山岡先生、あなたは本当は、連絡通路の先の、非常階段にいた」 「え…?」 「玲来さんと、会っていた」 「っ…」 ずいっとすぐ間近まで顔を寄せて、詰め寄る原に、山岡の目がふらりと泳いで、ストンと目線が床に落ちた。 「っ、どうしてですかっ?どうして、日下部先生に嘘を…」 「っ、嘘じゃ、ありません。オレは本当に検査室に…」 囁くような声で、小さく首を振る山岡に、原はハッと嘲るような笑い声を漏らした。 「っ、あぁ、そうですよね。きっとそれも本当か。検査室…。だけどその前に、非常階段にも寄っていた」 「っ…」 「どうして言わなかったんです」 うん?と詰め寄る原から、視線を逸らしたまま、山岡は小さく首を振った。 「たまたま、直前に行っていた方を、言っただけで…」 「嘘です」 きっぱりと、原が山岡の言葉を否定する。 「山岡先生は、意図的に、敢えて、非常階段に行っていたことは言わなかった。隠した」 「それはっ…」 そうじゃない、とも、そうだとも言わず、山岡はパッと上げた顔を、再びストンと俯かせた。 「浮気ですか?」 「えっ?はっ?はぃっ?」 「あなたはそんなことをするような人ではないと思っていました」 「っ、ちょっ、原せんせっ?」 何でそうなるっ?と慌てる山岡は、原の言葉にワタワタと意味をなさない悲鳴をあげる。 「だけど、日下部先生に、おれに、玲来さんと会っていたことを隠す理由なんて」 「いや、だからっ、それは…」 「それとも否定出来ますか?おれの見た2人の姿が見間違い?あの先には非常階段しかなくて、2人が時間差で待ち合わせたようにそこに向かったように見えたのは、おれの勘違いでした?あの先にまた別々の行き先でもあって、2人は一緒にいたわけではなかったといいますか?」 「いや、あの、それは…」 ぐわっと捲し立てるように言う原に、山岡はワタワタとしたまま、結局上手く言葉を作れずに俯いた。 「っ!あなたはっ…あなたはおれが玲来さんを気に入ったってことは知っていました」 「っ…」 「あなたには、日下部先生っていう恋人がすでにいます」 「だ、から…」 「なのに何故ですか?裏切るんですか?横取りするつもりなんですか?あぁ、そうだ。初めから山岡先生は、おれにはあまり深入りするなとかなんとか、言っていましたっけね」 ははっ、と嘲笑う原に、山岡はぎゅぅと唇を噛み締めた。 「あまりに酷くないですか?おれにも、日下部先生にも」 「最悪…」と、ぎゅっと顔を歪めながら、唸るように言葉を紡ぐ原に、どう言ったらいいのか迷った山岡は、ただ小さく首を振った。 「違います…違うんです」 「何がですか」 「それは…」 きゅぅっ、と眉を寄せて言葉に詰まった山岡に、原の冷ややかで嫌悪のこもった視線が向く。 「それは…」 ぐるぐると、この一件を取り巻く事情をあれこれと考えた結果、山岡はその口から、言い訳も説明も真実も、何1つ語ることは出来なかった。 「山岡先生?」 ふらりと開いた口を、ぐっと引き結んだ山岡に、原の目が絶望を映す。 「っ、分かりました。もういいです…」 フイッと山岡から視線を背けた原が、吐き捨てるように言い置いて、サッと踵を返す。 「あ…」 ズンズンと、苛立ったように遠ざかっていく後ろ姿を見つめながら、山岡がとっさにふらりと伸ばした手が、無意味に宙を彷徨った。 「ち、がう…」 呆然と、行き場のない右手と言葉を宙に浮かせたまま、山岡がその場に立ち尽くす。 淡々と、どれだけ時間が過ぎたのか。 ふとそこに、別の足音が近づいてきた。 「ん?山岡先生?」 どうした?と心配そうに駆け寄ってくる日下部に、山岡はハッとして上げていた右手を下ろした。 「いぇ…」 「そう?あ、今、救急に急患。消化器外科( う   ち)からヘルプ欲しいって連絡来たから、俺行くけど」 「あ、そうなんですね。はぃ」 「うん」 「あっ、1人で大丈夫ですか?」 「あぁ。対応できそうな感じではあったけど」 「そうですか」 「うん。もし厳しかったら呼ぶ」 プラプラと、PHSのストラップを揺らした日下部に、こくりと頷いて、山岡は諾意を伝える。 「じゃ、俺、急ぐから」 「はぃ」 頑張って下さい、とは心の中だけで、山岡は急いで立ち去っていく日下部の背中を見送る。 「オレはあなたを裏切りませんよ。絶対に。絶対に…」 きゅっと白衣の胸元を握り締めて、山岡がぽつりと、誰もいなくなった廊下に声を落とす。 ゆっくりと踵を返して次の病室に向かう山岡の薄い影が、廊下の先に揺れていた。

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