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第321話

  結局、急患対応で、自分の仕事時間が大幅に削られた日下部が、残業になってしまったせいで、山岡は1人、2人で住むマンションへと帰ってきていた。 適当にコンビニ弁当で夕食を済ませ、お先に1人、風呂に入る。 ちゃぷん、と揺れる水音に、ふわぁっ、と脱力した山岡の吐息が重なった。 「あ~、本当、疲れたなぁ…」 くんっと伸びをした手から、ポタポタと湯が滴る。 ゆったりと湯をためた浴槽の中、大人が寝そべっても十分の広さのある湯船で、両足を伸ばして寛いでいた。 「あれもこれも、重なるときは重なるなぁ」 日下部の父の手術。難しい手術を要する案件。里見の難病。 山岡が考えなくてはならないことが次から次へと舞い込んで、さすがの山岡も愚痴が漏れる。 「原先生は何か誤解したみたいだし…。はぁぁっ。せめてあの件は、日下部先生にだけは打ち明けるべきかなぁ…」 ちゃぷんと湯船の湯を揺らして、ブクブクと顔の半分まで浴槽に沈む。 「原先生には言いにくいからなぁ…」 里見に好意を抱いていると言っていた。だからきっと、知ったらショックを受けるだろう。 知ってほしくない。それと同時に、里見の許可なく勝手に知らせてしまうわけにもいかない。 「秘密…か」 日下部に対してそれを持つことは、出来ればしたくない。そんな風に何かを隠すことで、日下部と拗れたり揉めたりするようなことがあれば、自分のしていることは正しくない。 だけどあれほど重い病を、誰彼とやたらに知られることを、厭う里見の気持ちも分かる。 「っ、っ…」 どうしたらいいだろう、と悩む山岡は、それでも最優先に想う先は、ただ1つだ。 「うん。そうだ。明日、里見先生に、日下部先生にだけは教えてもいいか聞いてみよっと」 ざぷん、と一度、頭のてっぺんまで湯の中に沈み、ザパーッとそこから顔を出す。 「うん。そうと決まれば、取り合えずオレがしなくちゃならないのは、明日の説明資料の見直しだな。日下部先生が帰ってくるまでに済ませちゃおう」 あれも、これもと抱える中で、優先事項は明日のカンファレンス。 かなり難易度の高い手術や治療方針を、部長以下、同科の医師たちに納得させるように述べなくてはならない。 ぱっとずぶぬれになった顔を拭い、そのままびしゃびしゃの髪を掻き上げる。 「あぁ、前髪…」 日下部の言いつけのせいで、普段は上げてピンで止めてあるそれは、まだ長いまま切っていない。 「美容院、行こうかなぁ?」 くるくると、指先で長い前髪を捩りながら弄んで、ちらりと上目遣いに見つめたそれに、小首を傾げる。 けれども結局、切るという踏ん切りがつかずに、パッと離した髪はそのまましなりと目の上に掛かった。 「ま、いつか、ね…」 恐れるものはもう何もないのに、それでもまだこの髪を手放せない。 臆病者、と自分を嘲笑いながら、ふるふると振った頭から、パラパラと水滴が周囲に飛び散った。

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