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第323話

午前中、順調に外来患者を捌き切った山岡は、12時過ぎに、病棟へ戻るべく、エレベーターホールでエレベータの到着を待っていた。 ふとそこに、白衣の裾を翻した女性が隣に並んだことに気が付いた。 「……?」 (見られ、てる…?) 隣の気配がこちらを見ていることに気が付いて、山岡は恐る恐るそちらに目を向けた。 「っ、あ、なんだ…」 「ふふ、山岡先生、こんにちは」 「どうも」 にこっと微笑んで、ペコリと頭を下げたのは里見で、手には薬の処方箋が入った籠を持っていた。 「今日は外来だったんですか?」 「はぃ」 「今からお昼です?」 「そうです」 エレベータ、中々来ませんね、と微笑みながら、階数の表示が点灯している個所を見上げる里見につられてそちらを眺める。 ぼんやりと、その数字を見上げたまま、里見がゆるりと口を動かした。 「食堂ですか?」 「え?あ、はぃ」 「お1人ですか?」 「あ、いぇ、日下部先生と…」 「あぁ」 ラブラブですもんね、と笑う里見の目が、階数表示から山岡へと移された。 「いいなぁ、彼氏」 「っ…」 「幸せですか?」 「っ、そ、れは…」 「私も…私も、欲しいなぁ…」 こんな素敵な恋人、と微笑みながら、里見の手が山岡の腕に触れた。 「山岡先生みたいに優しくて誠実で、私の病気を理解してくれる人」 こてりと頭を山岡の腕に倒した里見の手から、するりと力が抜けた。 「あ…」 「っ、里見先生…っ」 ハッと咄嗟に慌てた山岡が、反射的にパッとその手を持ち上げる。 ちょうどそのとき、ポンと軽やかな音を立てて、エレベーターが目の前に到着したことを知らせた。 スーッと扉が両側にスライドしていく。 中から数人の乗客と、白衣を纏った1人の医師が吐き出されてくるのが見えた。 「あ、日下部先生…」 「え?山岡…?」 バチリと視線が合ってしまった、その白衣の人物の目が、呆然と見開かれていく。 その視線が何を捉えているのかを悟って、山岡はハッとして里見の手を離した。 「っ、違っ…これは」 咄嗟に寄りかかっていた里見の頭からもするりと逃げて、山岡がワタワタと日下部に弁明の声を上げる。 けれども日下部の嫌疑に揺れた目は、どこまでも疑い深く、山岡を見つめていた。 「山岡?」 ジッと山岡を見つめて、窺うように眉を寄せる日下部からは、それでも信じたいと訴える思いが届いてきた。 けれども山岡は、言葉を紡げずに、くしゃりと顔を歪めてしまった。 言い訳は、ある。けれどもこんな場所で。しかも里見の目の前で、里見にまだなんの確認も取っていない状況で、どうしたらいいものか。 (勝手に言うわけには…) ちらり、と里見に視線を向けてしまった山岡の、完全なミスだった。 日下部の目が、悲しそうに歪む。 「そ、っか」 ははは、と嘲りを映して笑った日下部が、ひらりと白衣の裾を翻した。 「っ~~!」 違うっ、と叫び、伸ばそうとした山岡の手は、スカッと虚しく宙を掻いた。 「あ、あ、あ…」 ピシリと姿勢よく背筋を伸ばし、スタスタと遠ざかっていく日下部の後ろ姿が、階段の方へと消えていく。 「っ~!追って!追ってくださいっ、山岡先生っ…」 事態を悟った里見が、慌てて山岡を促すけれど、山岡はクタリとしたようにその場にしゃがみ込んで、頭を抱え込んでしまった。 「山岡先生っ!」 項垂れている場合じゃない、と焦る里見に、山岡はただうずくまる。 ならば代わりに私が、と駆け出そうとした里見の足が、ギクリとしたようにその動きを止めてしまった。 「あ、っ…」 動かない!と叫ぶ声が聞こえる間もあればこそ。 何が起きたかを察した山岡が一瞬早く、パッと立ち上がり、転びそうになる里見を支える。 ドンッと山岡の胸に飛び込むようにして倒れ込んだ里見を無事に抱き止めた、そのとき。 今度は廊下の角を曲がってきた原の姿を、その目に捉えてしまった。 「あ…」 まずい、と思ったのは一瞬だった。 同じく、ハッと山岡たちの様子に気づいた原の目が、見る見るうちに怒りを宿す。 「だ、からっ、違…」 山岡が叫ぶ間もあればこそ、ダンッと手近な壁を一殴りした原が、憎しみにも取れる視線を山岡にギラギラと向けて、そのままバッと踵を返してその場を立ち去っていった。 「だから、違うぅぅ」 ふぇ、と半泣きになりながら、山岡はそれでも、足の動きが思うようにならない里見を抱えて、廊下の隅に移動する。 そっと気遣うように近くのソファベンチまで連れて行ってくれた山岡に、申し訳なさそうにした里見の目が、困ったように向いていた。

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