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第324話

「すっ、すみません。私、どうしよう…なんてことを」 青褪めて、震える手を握り締める里見に向かって、山岡は緩く首を振った。 「大丈夫。大丈夫です。それよりも足、大丈夫ですか?」 そっと里見の前にしゃがみ込み、「失礼します」と言いながら、その足を撫でさする。 「あ、はい、今は」 ありがとうございますと頭を下げて、けれどもすぐにその顔がパッと持ち上がる。 「っ、そんなことよりも、山岡先生っ。日下部先生を、早く」 追って弁明しなくちゃ、と、本人よりも焦っている里見に、山岡はゆるりと首を傾げた。 「大丈夫ですよ。日下部先生には、後ででも、ちゃんと話せば、きっと分かってもらえますから」 心配ないと言うように、里見に穏やかに微笑んで見せる山岡に、里見の顔がくしゃくしゃに歪んだ。 「っ~!私、私っ…」 ぎゅぅ、と顔を覆って項垂れる里見に、山岡がふわりと手を伸ばす。 その背中を優しく撫でながら、山岡はただ黙ったまま里見の激情が落ち着くのを待った。 「っ、もう、本当、すみません…」 くしゃりとした泣き顔を、どうにかこうにか持ち上げて、里見が力なく微笑んだ。 「あぁっ、もう、なんで。なんで…」 「里見先生?」 「優しすぎますよ、山岡先生」 くしゃくしゃの顔で、不貞腐れたように唇を尖らせる里見が、とても複雑な表情を浮かべて山岡を見つめた。 「こんなの、惚れてしまったらどうするんですか」 「え…?」 きょと、と目を丸くして固まった山岡に、里見が今度は悪戯っぽく表情を緩めて、クスクスと笑い始めた。 「私じゃなかったら…。ううん、私でも、これじゃぁうっかり勘違いしてしまいますよ」 「え?あ、の、里見先生?」 「山岡先生には、まったくその気がないのなんて、丸わかりなのになぁ」 罪な人、と笑いながら見つめてくる里見に、山岡は訳が分からずオドオドと視線を落とした。 「ふふ、患者」 「え…?」 「山岡先生の目から見て、私は患者なんですよね」 「え?あの…」 「さっきも。日下部先生とばったり会っちゃったとき、幾らでもその場で言い訳できたし、私を無視して日下部先生に縋ることだってできたのに…」 「それは…」 にっこりと、晴れ晴れした笑みを浮かべながら話し始める里見に、山岡はソロソロと顔を上げた。 「貴方は、私のプライバシーを…私との約束を優先した」 「……」 「言いましたよね?山岡先生。裏切りたくない人がいるから、慰めに抱き締めたりしないって。その、貴方が、日下部先生を追うことよりも私の元に留まることを選んだ。その理由は1つですもんね」 「あ、う…」 「私が病人だから。貴方にとって、患者にしか見えていないから。私を女として見ていたら、山岡先生はきっと、迷わず日下部先生を追ったはずです。貴方は何より恋人のことを尊重し、優先する人です」 「里見先生…」 「だけど、そうしなかったのは、今もここにこうしているのは、私の身体を慮って。貴方にとって最優先は、患者の命。その健康。医者である貴方が恋人よりも優先する、唯一のこと。そうですよね?当たりでしょう?」 うふふ、と笑う里見に、山岡はふらりと視線を彷徨わせ、それからストンと頷いた。 「羨ましいです」 「え…?」 「日下部先生は、きっとそんな山岡先生のこと、理解して受け止めていらっしゃるんですよね。だから山岡先生も、今慌てないで、こうして落ち着いて私の側にいられるんですよね」 素敵だな、と少しだけ寂しそうに微笑む里見に、山岡はきゅっと唇を噛み締めた。 「本当に、本当に、素晴らしいお医者様」 「里見先生?」 「あ~あ。私も、先生みたいな彼氏が欲しかったなぁ」 あはは、と笑う里見の目に、山岡は困惑気味に視線を揺らした。 「山岡先生が彼氏だったらよかったのに。でも貴方はすでに人のもの」 「っ…」 「本当、上手くいかないなぁ…」 へにゃりと笑う里見の目に、薄い涙の膜が張った。 「こんなっ…まだ、若いつもりなのに、こんな病気になって…っ。素敵だな、って思える人に出会ったのに、その人にはもう決まった人がいて」 「里見先生…」 「もっ、やだ…。やだなぁ、私。なんかもうここ最近ずっと、なんで、なんでって…」 「はぃ」 「ないものばっかりねだって、すごく惨めで格好悪くて…っ」 「そんなことは…」 ぽろり、と一筋、留まりきらなかった涙が里見の頬を伝い、その雫がポタリと山岡の手の甲に落ちた。 「ごめんなさい」 「いぇ…」 「だけどっ、でも、自分が辛いからって…人の不幸を願ったり…人の幸せを邪魔したり壊したりなんて、したいとは思ってないんです…っ」 「里見先生」 「だから、だからごめんなさい。山岡先生、私、弁明には絶対に一緒に行きますからね。ちゃんと誤解を解くように私からもちゃんと話しますから。私の病気のこと、日下部先生には、言ってしまって構わないですからね?」 だからお願いです、と涙を一杯溜めた目で、里見は必死に山岡を見つめた。 「私を、1人にしないで…っ」 ぶるりと小さく身を震わせて、自分の身体を抱き締めるように両腕を自らに回して縮こまる里見に、山岡は柔らかく微笑みかけた。 「里見先生に必要な限り、オレでよければ力になりますよ」 ちゃんと付き合います、と微笑む山岡に、今度こそ里見の目からは大粒の涙がポタポタと滴り落ちた。

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