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第326話
「っ…」
ぐっ、と膝の上で握りしめた拳が、くしゃりと白衣の裾に皺を作った。
『え、山岡、なにあれ?』
『ふふ、見ての通りよ。見ての通り』
『見ての通りって…接触事故?』
『らしいね。まったく、やってくれるよね、山岡』
『で、これは…』
『お仕置き中でしょ。オ・シ・オ・キ』
『ぷっ、日下部先生?』
『他に誰がいるかっての』
コソコソ、ヒソヒソ。囁き声で交わされる内緒話が、ナースステーション内でデスクの周りに集まった看護師たちの間で繰り広げられている。
その壁際。人の通行に邪魔にならない隅の方に、山岡がちょこんと正座をさせられていた。
その胸元には、首から反省文が提げられている。
『私は廊下を走り、前方不注意で、患者様と接触事故を起こしそうになりました。反省しています』
その辺にある、厚めのコピー用紙に、流麗な文字でマジック書きされたそれ。
見るものが見れば日下部の直筆だと分かるそれを首から掛けさせられて、山岡がぽつんと俯いていた。
『もう本当、なにやってんだかね』
『っていうか、久しぶりにスカイ・テリアってるね、山岡』
ばさりと落ちた前髪が、その表情を半分以上覆い隠している。
『でも日下部先生もキビシ~』
『ま、一歩間違えば大惨事だもん。あれくらいいいんじゃない?』
『でもちょっと可哀想。完全に見世物じゃん』
『それが狙いでしょ。恥ずかし~思いさせて反省させようって魂胆』
『ついでにスケープゴートの意味合いもあるんじゃない?』
『廊下をむやみに走って危険を招くとああなるぞ、って?』
『いやぁん、怖ぁ〜い』
『鬼~。どS~。でもそんな日下部先生が素敵』
『あんたはMっ子だよね』
ヒソヒソ、コソコソが、徐々に大きく、普通の話し声になっていっていることに気づいているのか。
他人事なだけに好き勝手言いまくる看護師たちの会話が、ナースステーションの隅にいる山岡の元にも聞こえてくる。
「っ…」
う、と呻きながら、居たたまれなさそうにますます俯いていく山岡は、小さく震える唇をぎゅっと噛み締めていた。
「ふぅ~。回診終了。何か変わったことは?」
ふと、それからどれくらいの時間が過ぎたのか。
カートを押した看護師と、聴診器を首に掛けた日下部が、ナースステーションに戻ってきた。
その手が近くにいた看護師に、ポンとカルテの束を受け渡している。
「あ、お疲れ様で~す。特に変わりはありません」
コールも静かなもんですよ、と微笑む看護師に頷いて、日下部がそのままスタスタとナースステーション内を横切った。
「で?こっちの悪い子は、たっぷり反省できたかな?」
ふわりとした空気の揺れと同時に、俯く山岡の上に影が差す。
「っ、日下部先生」
へにゃりとした情けない顔を仰向けながら、足をもぞもぞさせて、山岡が目の前に立った日下部を見上げた。
「クスクス。その顔は、十分懲りたみたいだな」
薄っすらと目を細めながら、日下部が瞳を潤ませた山岡を見下ろした。
その手がするりと山岡の髪を左右に分け、綺麗な美貌があらわになる。
「ん?」
「っ、はぃ。も、十分、はんせ、しました…」
今にも泣きだしてしまいそうな表情をしながら、必死で日下部に訴える。
一瞬看護師たちに巡らされた視線が、ふらりと日下部に舞い戻り、その頬は薄っすらと赤く染まっていた。
「恥ずかしい思いをしたな」
「う、はぃ」
「2度としないな?」
「しません。ごめんなさい」
しゅんと再び俯く山岡に、十分罰の効果を悟って、日下部はその俯いた頭をポンと撫でた。
「よし。立っていいぞ」
それも外していい、と許可を与えられ、山岡が1も2もなくするりと足を崩す。
そのまま首に掛けられた反省文を外そうと手を持ち上げながら、立ち上がろうとしたんだろう。
スッと片足を立てたところで、山岡は不意に唸り声を上げてくしゃりと蹲った。
「山岡?」
「うぅ…うぇぇ」
くぅっ、と立てた足を抱え込み、ぎゅぅと俯く山岡を不思議そうに見下ろす。
その日下部の目が、山岡の現状に得心がいった顔をして、にやにやと笑み崩れていった。
「痺れたのか」
「うぅ…」
「クスクス。これはこれは」
仕置き甲斐があってなにより、と笑う日下部を、山岡が恨みがましそうに見上げる。
「ふっ、ほら」
「うぅ、すみません…」
揶揄うように目を細めながらも、スッと差し出された日下部の手を、山岡はありがたく受け取った。
「うわ、っと…」
「おっと」
取った手をぐいと引かれ、足の痺れが完全に治まっていなかった山岡がよろめく。
その身体をドスンと胸に受け止めた日下部に、「キャァァァ!」と割れんばかりの悲鳴が上がった。
「いやぁん、日下部先生~、職場でイチャイチャしないでくださ~い」
「いやいや、もっとやっていいですよ。ハーグ、ハーグ、キース」
「やれやれぇ、山岡先生、日下部先生。もっとやれ~」
「あぁん、眼福。イケメン同士の絡み」
「こらこらこらこら」
途端にワッと盛り上がった看護師たちに苦笑を返し、日下部がそっと山岡の身体を肩を支える形に変えてボードを外してやった。
「立てるか?」
「あぅ、はぃ…」
「ん。歩ける?」
「はぃ」
いい子、と微笑んだ日下部に、看護師の何人かが絶叫し、何人かが眩暈を起こしたようにクラリと頭を抱え、何人かがフラフラとよろめいていた。
「じゃ、お仕置きはお終い。行くよ」
「はぃ」
「で、きみたち。この指示書、ちゃんと処理しておいて。それから××号室の田中さん、点滴終わってたよ?確認甘い。こっちの書類の処理は済んでる?佐藤さんの担当は?電話診の準備は済んでいるのかな?」
くしゃりと反省文の紙を握りつぶし、ニッコリと看護師たちに向き直った日下部に、みんなが一斉に慌てて動き出す。
「山岡先生はこっち」
おいで、と手招きし、バタバタとそれぞれの仕事に戻っていく看護師たちの間をすり抜けながら、日下部は山岡を連れてナースステーションを出て行った。
途中、ポーンと綺麗に放物線を描いた丸められた紙屑が、スポンと見事に壁際のゴミ箱に収まった。
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