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第327話
「で?」
ちらり、と日下部に視線を向けられて、山岡はウッと言葉に詰まりながらも、きしりと医局の自分のデスクの椅子に座った。
ナースステーションを後にした2人は、そのまままっすぐ医局に来ていた。
中には原の姿も、他の同僚の医師の姿も見当たらない。
2人きりの室内の中、わずかに緊張を滲ませながら、山岡がゆっくりと息を深く吸い込んだ。
「何か話があったから、あんな風に追いかけて、こんなことになったんだよな?」
「はぃ」
「それで?話っていうのは何」
山岡が切り出そうとしていること。話したいと思っていることがわかっている様子で、日下部は椅子の背もたれに背中を預けて、ゆるりと組んだ足でくるーっと椅子を半回転させた。
「ん?」
「はぃ。その、ここでは、ちょっと…」
いつ原が戻ってくるかもしれない。他の医師が突然帰って来る可能性もある。
込み入った話をするには不安で、山岡はそっと息をつきながら、ゆるりと顔を上げた。
「今日の仕事終わりに…少し付き合ってもらえませんか」
「焦らすわけね」
「っ、そういうつもりではないんですけれど…その」
「里見玲来。何を隠しているの?」
「っ~!」
ちろり、と何かを見透かすような視線を向けられて、山岡の顔はストンと俯いてしまった。
「言う気がない、と」
「っ、違いますっ。今、ここでは、というだけで」
話すつもりではいる。そう言う山岡に、日下部の探るような視線が向く。
「原が、山岡と里見さんが抱き合っていたって言ってたんだけど」
「っ~~!」
あの研修医くん。いつの間に、そんないらない情報を日下部に愚痴ってくれているのだ。
思わず苦い顔になる山岡に、日下部の目が薄く細められた。
「ま、誤解だろうということは、分かっているよ」
「日下部先生…」
「病気かな」
「っ…」
おまえのことだから、多分その辺り、とあっさり見透かす日下部に、山岡は言葉もなく息を呑んだ。
「まぁそれでも、面白くないものは面白くないし、完全な潔白かどうか、疑っている部分もなくはないんだよね」
「日下部先生っ…」
「外来。12時過ぎたから、終わるだろうなって思って、食堂に行く前に迎えに行こうと向かった先でさ、まさかあんなシーンに出くわすなんてね」
「あれはっ…」
「うん。里見さんと寄り添って、手を繋いでいた」
「っ…」
日下部からはどうしたってそう見えた。
客観的に見てもそうだろうと分かる山岡は、きゅっと唇を噛み締めて、力なく首を振った。
「おまえが浮気なんてないだろうとは思ってる」
「っ…」
「だけど、おまえは何もかもを置いて、真っ先に俺に言い訳をするでもなく、俺に縋りつくわけでもなく、咄嗟に里見さんを優先した」
「っ~!あれは…」
違う、と震えた山岡の唇は、その音を形作れずに、ぐっと閉じてしまった。
「うん。医者だから」
「っ…日下部先生」
「おまえは医者だから。24時間、1分1秒、必ず。目の前にいる患者を優先しろ。とらの前でそう言っていたおまえのことは忘れてない」
「っ…」
「だけど…いや、だから、おまえを責めたくないし、否定もしたくないし、その行動の意味は分かっているつもりでいる、けれど」
「日下部先生…っ」
「ショックを受けるのを止められない。どうしたって傷つく。言ってはいけない一言を、どうしても言ってしまいそうになる」
はぁっ、と苦笑いを浮かべた日下部の揺らぐ瞳が、苦しそうに山岡を見つめていた。
「どうして俺を最優先にしてもらえないんだろう。どうして俺じゃなく里見さんを選んだんだろう」
「っ~~!」
『医者の矜持と恋人、どっちが大事?』
吐息ほどの小ささで、ほとんど口パクにしか見えなかったその言葉を、日下部は酷く情けなさそうにそっと白状した。
その唇の動きを読み取って、山岡の顔がくしゃくしゃに歪む。
「っ、くさかべっ、せんせ…っ」
「うん。俺は、医者であるおまえに惚れたのにな」
「んっ、ん…」
「カンファのとき、嫌な態度を取ってごめんな」
「違っ、いい、いいんですっ。オレがっ、オレが…っ」
「おまえが呼び止めているのを分かっていて無視してごめん。追ってきていることに気づいていて、立ち止まらずに悪かった」
「っ~!ち、がう…っ」
日下部が頭を下げる必要なんて、何1つないんだ。
悪いのは山岡で、謝罪すべきも山岡だ。
「ごめんなさい。ごめんなさいっ、日下部先生っ。千洋っ」
ふぇ、と泣き出しそうな顔をして、咄嗟に立ち上がった山岡が、深々と頭を下げた。
「うん。分かってるよ、大丈夫。夕方、仕事終わりに、ちゃんと付き合うから」
「日下部先生っ…」
「ほら、泣くなって。他の先生たち、戻ってくるぞ?」
分かったから、と笑って見せる日下部に、山岡の完全に涙目になった瞳にますます涙が盛り上がった。
「ふふ、それにしても、今日はどうして髪を下ろしているの」
「え?あ、違っ、これは、さっき取れてしまって…」
「そ?てっきり、疚しいことがあるから、顔を隠してしまいたいのかと」
「違います!そんなこと…っ」
ヘアゴム、ヘアゴム、と慌てて白衣のポケットを探る山岡の目からは、一瞬で涙が引っ込んだ。
多少赤くなった名残はあるものの、気にするほどではなくなった表情を盗み見て、日下部はふわりと慈しむような視線を向けた。
(愛してる)
どうしたって愛おしい恋人を目の前に、日下部の口元が緩やかに弧を描いた。
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