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第330話

「それで?」 「えっ…?」 「山岡を相談相手に選んだ。頼る人間に認定した。それまではいいんだけど」 「はい…」 トンッ、とテーブルを1つ、指で叩いて、日下部は里見の目を真っ直ぐ見つめた。 「その先のこと」 「っ…は、い…」 少しも揺れない日下部の視線に、里見が小さく息を呑んで、小さく揺らいだ声を漏らした。 「院内で山岡だけに知らせていて、今後、山岡だけに頼ってフォローしてもらっていくのは、多分、無理があると思うんだけど」 冷たくも取れる、だけどただ真っ直ぐ事実であるそれを告げる日下部に、里見の目は切なく歪んで小さく伏せられた。 「そう、ですよね…。分かっているんです。分かって…」 部署も違う、なんなら本来接点すらそうありはしない、薬剤部と消化器外科医。 共にいる時間などほとんどないに等しくて、仕事中に何かがあってもフォローするどころか、その事実を知ることすらないかもしれない。 「オレは…」 「相談に乗るのはいい。たまたま近くにいたときに、フォローできるのは、まぁそうだろう。だけど、あなたの側に、こいつが四六時中いられるわけじゃ、ない」 「はい…」 「同僚や、他の人間に、話すつもりは?」 ふわり。責めるわけではなく、でもただ必要な確認だと問いかける日下部に、里見はふにゃりと視線を彷徨わせ、困ったように微笑んだ。 「話さなければいけないのは分かっています。私はこれからどんどん症状が進行していって、いつどんな迷惑を周りに掛けるかも分からない」 「うん」 「今でも、いつ手足が引き攣れたように動かなくなるか。それがもし調剤中に起こったら?どうしたって、他の薬剤師の方たちに、フォローしてもらわないとならなくなることは、ちゃんと分かってます」 「うん」 「いずれ…いずれ、もっと症状が重症化して…仕事を、続けられなくなるだろうことも…」 きゅぅと背を丸めて、何かを堪えるように深く俯いた里見が、ゆっくりと肩を上下させて、静かに静かに息を吐いた。 「私は、きちんと私の口から、この病気であることを、みんなに伝えないといけない」 「ん…」 「だけど…っ、私は…」 「里見先生…」 「だから…だから私は、山岡先生に…っ」 小さく震わせた唇を、きゅっと引き結んで顔を上げた里見の視線を、山岡はゆるりと受け止めて、困ったように小さく首を傾げた。 「ごめんなさい」 「っ、山岡先生…」 「出来ることなら、オレはいくらでも手を貸します」 「山岡先生…」 「もちろん約束した通り、1人にもしません。だけど、オレ1人が出来ることは、限度があります」 「んっ…」 分かってるけどっ、と言わんばかりに、里見の頭が小さく上下する。 「貴方に頼ってもらえることは、とても光栄で、もちろん迷惑などとも感じません。だけど」 「分かっています。私のすべてを、山岡先生1人に支えてもらおうなんて、都合よすぎですよね。ましてやあなたには恋人がきちんといらっしゃる」 「っ、はい」 「そんな方に、私がこんな風に寄り掛かり、頼り切りになっちゃいけない」 日下部が言いたいのもそこだろうと、里見は小さく笑って顔を上げた。 「下心が…なかったとは言いません。山岡先生の優しさに、クラッときてしまったことも、ないとは言い切れません」 「里見先生…」 「だけど…だけど私は、まったく山岡先生の方にその気がないことくらい、きちんと分かっていますからね」 ふふ、と笑う里見に、日下部がゆるりと目を細めて、柔らかく微笑んだ。 「そう」 「だって山岡先生、僅かも私を女として見てないんですよ?」 「えっ?あの、里見先生?日下部先生?」 「ふふ、私は山岡先生にとって、数多いる患者さんたちと同列。ただの患者の1人で、ただただ病人で」 「っ…」 「夢見る余地すらありませんよね。私はどうしたって、山岡先生のそのフィールドには上がれない」 そもそも、山岡先生のそのフィールドは定員1名。すでに満席です、と笑う里見に、日下部は、花開くように艶やかに微笑んだ。 「ならいいんだけど」 「日下部先生も、なかなか容赦ありませんよね」 こちらは病人なんですけど?と目を細める里見にも、日下部の綺麗な笑顔は崩れなかった。 「俺は、こいつと違って、誰にでも優しくも甘くもないもので」 ふっ、と笑う日下部に、里見はあーあ、と空を仰ぐように上向いた。 「本当、いい男っていうのは、大概フリーじゃない」 だからいい男なんですけど、と笑う里見に、日下部は魅力的に微笑んだ。 「言いますよ、私の口から、きちんと、部署のみんなには」 「そう」 「だけどそれとは別に、やっぱり山岡先生のことも、時々お借りしたいな、なんて」 ふふ、と微笑む里見に、日下部の楽しそうな目が向いた。 「あなたもなかなか強かだ」 「そうですか?」 「ふっ、山岡。おまえもどうせ、もう手を引けって言ったって、聞きはしないだろう?」 乗りかかった船。ましてやそれが病気に関することなんて、山岡が途中で降りるはずもない。 「オレは…」 「そういう子だからなぁ」 「子って…」 また子ども扱いして、と唸る山岡を、日下部が可笑しそうに見つめた。 「俺を裏切っていないのは分かった。この先も、きっと裏切ることはないことも分かっている」 「それは、はぃ」 「はぁっ、だから、もう仕方がない」 「日下部先生?」 「俺も乗る」 「はぃ?」 いや、いきなり何を、と首を傾げる山岡に、日下部はそれはそれは綺麗に微笑んだ。 「里見さんと山岡の乗りかかった船。2人でコソコソされるより、俺も巻き込まれに行った方が、俺の精神衛生上よろしいから」 「精神衛生上って…」 「分かっていても妬くからな。それでも目の前で見ている方がマシ」 「日下部先生…」 「だから、里見さん。何かあったら、俺にも声をかけるといい」 にこり。それはそれは綺麗に微笑む日下部に、気圧されながらも里見が慌てて手を振った。 「そんなっ、私は、山岡先生をお貸しいただけるだけで、十分…」 日下部先生まで、という里見にも、日下部は綺麗な笑顔を崩さなかった。 「安心して。俺のは、決してあなたに同情してとか、俺も医師だから力になりたい、なんて崇高な意志からじゃないことは言っておく」 「日下部先生っ?」 「俺のはただ、俺の山岡が、若くて可愛らしい女性に、信じてはいても、うっかり靡いてしまわないか、見張りのために協力を申し出ているに過ぎないから」 「っ…」 感謝も遠慮もされるいわれはないと言い切る日下部に、里見の顔がくしゃりと歪んだ。 「あ、なた、たちは…っ」 「ん?」 「貴方たちはっ、本当に、どうしてそんなにスマートなんですか」 「クスクス、そう?」 「本当に…っ。2人して、貴方たちは…っ」 「ふふ」 「ベストパートナー…」 「うん?」 「ベストパートナーというのは、貴方たちお2人のためにある言葉ですね」 ふわりと微笑む里見の目から、スゥッと一筋、綺麗な涙の雫が落ちた。 「医師として、人として、最高最強。心から、尊敬し、信頼します」 贅沢過ぎる相談相手だ、と笑う里見に、日下部と山岡がふわりと微笑んだ。 「何がなんでも病気と、負けずに闘っていきたいと思います」 ぐっと真っ直ぐ前を見据えた里見に、日下部と山岡が同時に頷いた。

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