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第334話
「あっ、ごめんなさい。すみません…」
山岡に離されて、すとんと身体の横に落ちた日下部の手が、小さく震えていた。
「いや…。俺こそな。まさか俺がこんなに情けないやつだったなんて、俺も思ってなかった。格好悪すぎるだろ」
「あ、や、違う、違くて、日下部先生」
「いや。いいんだ。やっぱり俺、執刀を外れて正解。まさか、こんなに動揺するなんて…」
「っ~!だからっ、違うんです!」
はは、と自嘲的な笑い声を漏らす日下部に、ぶんぶんと首を振った山岡が、勝手に進む日下部の話を、大声で遮った。
「マスコミです!」
「は…?」
「マスコミなんです。どこからか、情報が漏れたらしくて。今、病院の外に殺到しているって…」
「はぁ?」
「狙いは日下部さんらしくて。オレは慌てて外来から引き上げてきて…とにかく部長のところにすぐに行かなきゃで」
だから日下部先生も急いで、と告げる山岡に、日下部の顔がポカンとなった。
「マスコミ…?」
「そうですよ。漏れたのは院内からじゃないそうなんですけど、とにかく、なんか大騒ぎになっていて」
「急変して慌てていたわけじゃない?」
「はぃ。紛らわしいことしてすみません」
「いや…」
はぁっ、と途端に脱力する日下部に、どうしたものかと焦る山岡の足踏みが聞こえる。
すぐに対策を、と頭を巡らせる山岡に、日下部の顔がようやくいつものものに戻った。
「なるほど。どこかからあの人の入院先がここだと知って、押しかけているわけか…。大ごとだな。すぐ行こう」
「はぃ」
「あぁ原。悪いけど先に昼休憩入っていいからな。後、誰にも何も、一切話すなよ?」
「りょ~かいでっす」
タンッと床を蹴りながら、パッと原を振り返ってそれだけ言い残す日下部に、原がピシッと敬礼をして見せている。
「はぁっ、それにしてもなんでここへ来て…」
「本当に」
「何がどこまでバレているんだか。あの人はどうしているの?マスコミ、院内には入れないよな?」
「情報が錯綜していてまだよくわからないんですけど、とりあえず日下部さんのところの安全は保たれています。マスコミは、警備がいるので、中には入れないはずですけど」
「すり抜ける性質の悪いのがいなきゃいいけど…。とにかく、情報をまとめて対策を練らなきゃな」
急ごう、と早足になる日下部に、山岡がパタパタと並んだ。
「で、結局、会見か」
はぁぁっ、と深い溜息を漏らしながら、ぐったりとデスクに突っ伏す日下部は、部長、スタッフ、千里、秘書、その他関係者を交えての話し合いでまとまったことを反芻しながら、嫌そうに呟いた。
「まぁ、秘書さんがそれが最善だということですからね」
「で、出るの?」
「はぃ?いやっ、出ませんよ」
「でも、主治医として、病状の簡単な説明を話して欲しいって言われてただろ?」
「それは、秘書さんが伝聞調で伝えることに決まりましたよね?」
蒸し返さないで~、と困った顔をする山岡に、日下部がようやくひょいと顔を起こして、にたりと笑った。
「そうだっけ?おまえのその美貌と医者としての優秀さ、世間に知らしめるいい機会だと思ったけど」
「馬鹿言わないでください。オレはただの一介の医者です。記者会見とかテレビとか、無理…」
「クスクス。なんてね。見せびらかすわけないだろう?これ以上おまえのファンが増えたら困る」
原稿、出来てきたらチェックだけしてやれよ、と笑う日下部はただ山岡を揶揄っただけのようで。
「何を言っているのかちょっとわかりませんけれど…。とにかく、日下部さんが安静に、なんの心配もなく入院治療できる環境整備が一番大切です」
「あいつ…秘書が、全部上手くやるよ。それにしても、社内の一部のほんの噂から漏れるとはね」
「世間も大注目している、大企業の社長さんなんですねぇ」
「な。ったく、見てみろ、もうこれだ」
スッと私物のスマートホンを操作して、画面を向けた日下部に、山岡がそれを覗き込む。
「わ…。大企業センリグループ総帥、入院していた…ですか」
「こっちも、ほら。病名は癌か?本日午後2時より緊急会見」
ニュースアプリに踊る文字を読み上げながら、2人が顔を見合わせて嫌そうにその眉を寄せた。
「どこぞのいち社長だと思うんだけどな」
「でも、日下部さんの進退次第では、経済界が揺らぐって…」
「まぁなぁ。はぁっ、当分うるさいな、これは」
「ですねぇ…」
箝口令はもちろん、内部にふらりと侵入するマスコミに警戒しなくてはならないし、院内が、特に消化器外科近辺がピリピリすることは必至だ。
「下手に俺がマスコミに露出があるのもマズかった…」
「あぁ、雑誌とか。張っているマスコミさん、すぐ見つけちゃいましたもんね、日下部先生のこと」
「親子だってのもバレてる。あぁ、面倒くさい。悪いけど、当分帰るとき一緒に出るのはやめよう」
「でも1人で大丈夫ですか?」
「うん。おまえに火の粉が飛ぶ方が困る。ましてやおまえは主治医だぞ。これ以上餌を撒いてもね」
「そうですね…。日下部先生も、気を付けてください」
「うん。ありがと」
囲み取材はお断り、その代わりの記者会見だという建て前らしいけれど、それが守られるかどうかの保証はない。
当分ざわつきが収まらないだろう数日間を思って、山岡の苦笑と日下部の深い溜息が同時に零れた。
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