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第335話
なるべく人目に触れないように、院内での行動範囲も狭めた2人が、職員オンリーの食堂で昼食を済ませて、午後。
山岡は新患の精密な検査と、その本人、家族との詳細な話し合い。日下部は簡単なオペを一件こなして、医局でのんびり息抜き休憩を取っていた。
そこに、ふと、ふらり、ふらりと顔色を悪くした原が、おぼつかない足取りで帰ってきた。
オペの助手をしての疲労…というよりは、また違った憔悴っぷりを見せる原に、日下部がコーヒー片手に首を傾げた。
「どうしたの?」
酷い顔色、と様子を窺う日下部に、原の目が縋りつくように向けられた。
「日下部先生ぇ~」
うあ~ん、と泣き声を漏らしそうな勢いで、原が日下部にすり寄った。
「どうした」
「玲来さん」
「ん?」
「玲来さん…。今、もう出勤してるよな~と思って、薬剤部にちらっと寄り道してきたんです」
「あぁそれで。オペ後どこへ行っちゃったのかと」
仕事しろよ、と苦笑する日下部に、そこは見逃して、と曖昧に笑って、次にはまたヘニャリと情けなく眉を下げた。
「玲来さん、いなかったんですけど…」
「うん?」
「だけど、その、他の薬剤師さんたちが話すのを、聞いちゃって」
うっ、と目を潤ませる原に、日下部は「あぁ」と得心のいった呟きを漏らした。
「っ、ご存じ、だったんですか?」
「病気のこと?」
「はい。おれの知識が正しければ、根治治療の方法が見つかっていない、指定難病の…」
「うん」
震える声で紡がれる原の言葉を、日下部は努めてフラットに受け止めた。
「っ~~!ど、う、して…」
「うん?」
「なんで。なんでっ、彼女が…っ」
「そう言われてもね」
「っ~!日下部先生たちはっ…山岡先生もっ、これを知っていたから、おれに、彼女に関わるなって言ってたんですか?」
「ん~、まぁ、山岡はそうだね」
現にその反応、とつまらなそうに、日下部がドサリとソファに身を沈めた。
「っ…日下部先生は、俺がそれで諦めるって、思ってました?」
「さぁ?どうだろうね。良くも悪くも、きみは直情型で、一直線だから」
傷だらけになっても、納得するまでは走るかな、と笑う日下部に、原がきゅっと唇を噛み締めた。
「これで諦められる程度の想いなら、初めから恋と呼びません」
「うん」
「だけど、おれに荷が勝ちすぎるっていうのも…分かりました」
「そう」
「おれには全然、人生経験も、医者としての経験も、人としての厚みも足りない…」
ぎゅぅ、と拳を握り締めて、悔しそうに、だけどどこか冷静な自己分析をして呟く原を、日下部は楽しそうに目を細めて見ていた。
「だけど、ただがむしゃらに、彼女を救いたいと思うんです。ただひたすらに、彼女が救われて欲しいと思うんです」
「そう…」
「彼女の、一部でいいから、触れたい…」
だからアタックし続けます、と顔を上げた原に、日下部は静かに「あっそ」と呟いた。
「はぁっ、つっっっかれたぁぁぁ」
原が、そうと決まれば突撃してきます、と気合を入れて医局を飛び出し、「きみ、仕事はっ?」と叫ぶ日下部の声が空しくそのドアに跳ね返った後。
数分の間を置いて、ヘロヘロになった山岡が帰ってきた。
「お疲れ様。どうしたの?揉めた?」
そんな案件でもなかったよな?と首を傾げる日下部が、ゆっくりとソファから立ち上がり、山岡のためにコーヒーを淹れてやろうとコヒーサーバーの前へ向かう。
「あ、ありがとうございます。いぇ、ある意味そうなんですけど、どちらかというとその逆です」
「逆?」
「全員が臓器なら提供する、頼むから娘を救ってくれって…」
「あぁ、過度な期待ってやつね。揉めどころが一致団結してるわけだ」
「はぃ…。こぞって我先にとドナー検査を申し出ていただいて…」
「はは。説得するのに骨が折れそうだ」
「はぃ…」
だから疲れた、と自分の席に沈み込む山岡に、日下部がコーヒーのカップを差し出した。
「で?脳死移植を待つって、納得してもらえた?」
「はぃ。それは。順位は相当高いそうですから、見込みは十分です」
「そうだな」
「患者さん本人だけが…少し辛そうでしたけれど。カウンセリング、予定しておいた方がいいかもしれません」
家族や周囲は、1も2もなく頷いた。
そりゃ、命が助かるのだ。その他の多少のことには目を瞑ってしまえる。
言葉は悪いが、本人以外にはしょせん他人事なのだ。
けれども本人だけは、その背負うものの大きさに、心がついていかないことがある。
「そうだな。誰かが死ぬのを待つも同然だ。そうしてまで生きるべきか、疑問を抱くのはよくある話だ」
「生きるべきです。手段がある。だけど…」
「俺たち医者も、その矛盾に、一生答えが出ることはないんだろうな」
「はぃ…」
誰かの命を救うため、誰かの命を諦める。医師として両極端の、埋まることのない移植医療の矛盾。
しんみりと頷いた山岡に、日下部もただ黙って自分の席に戻っていった。
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