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第336話
それからどれくらいか、カタカタとパソコンに向かったり、スルスルと書類を捌いていく静かな音だけが医局の中を支配した。
ふと、キーボードを打ち込む山岡の手が止まり、ふらりとその目がパソコンの画面から、日下部の方に逸れる。
「あれ…?そういえば、原先生は?」
指導医と研修医、四六時中一緒にいる、というわけではない。けれど、不意に疑問に思った山岡が、ことんと首を横に傾げたのを、同じく書類から目を上げた日下部が、「あぁ」と頷きながら見つめ返した。
「あのサボリ魔ね」
「サボリ魔って…」
「帰ってきたら説教だな。原なら薬剤部」
「へっ?」
え?本当にサボリ?と目を白黒させる山岡に、日下部が派手な苦笑を滲ませた。
「本当に。玲来さ~ん、って叫んで飛び出して行ったよ」
「いやまさか」
「ちょっと盛ったけど、それほど遠くないからね」
「本当ですか…」
なにやってるんだ、原先生、と呟く山岡に、日下部が呆れるでしょ、と笑っていた。
「まぁ、知っちゃったみたいだからね」
くるーっと椅子を左右に振って、日下部が大きく伸びをした。
「え…まさか」
「うん。どうやら里見先生、ちゃんと同僚たちに話したみたいだよ」
それを原が盗み聞きしてきた、と笑う日下部に、山岡の表情は曇っていった。
「原先生…」
「うん。一瞬凹んでた。でも、めげない原の、あれが長所なのか短所なのか」
「そうですか…」
「うん。あいつなら、情熱でなんとかしてしまいそうだ、とか思ってしまいそうになるところが、ちょっと怖いよね」
「あはは。そんな非現実的な」
「まぁな。だけどあいつ、そのうち神経内科に転科するとか、研究室に移動するとか、言い出さないといいけどなぁ」
猪突猛進型だし?と笑う日下部は、すでに原を手放すのがすっかり惜しい様子で。
「日下部先生の一番弟子ですもんね」
取られたら大変、と笑う山岡に、日下部が悪戯っぽくピンッとデコピンをして見せる仕草をした。
「それにしても本当、あいつは、多難な恋ばかりにおちる」
「あはは」
それは、日下部のことや、山岡のことを言っているのだろうか。
「それでも…。あいつがボロボロになることがなければいい…」
あらゆる意味で、きっと試練の恋だ。
恋愛は、原の人生を豊かにするものでありこそすれ、間違っても自分の大切に育てている部下が、そんなことで潰れてしまうことのないように、面白がりながらも半分本気で心配を滲ませている日下部だった。
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