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第339話
そんなこんなで、頭にお花を咲かせた原の、浮かれっぷりが面倒くさい日々が流れ、その日は、からりと晴れた空がとても気持ちがいい朝だった。
ピピピピ、ピピピピ。
スマホのアラーム音が鳴り響き、大きく伸びをした山岡の手が、パタパタとベッドの上を彷徨い、手探りでその音の発信源を探し当てた。
「んっ…」
トンッとタップされたスマホが、シーンと黙り込む。ボーッとした目でディスプレイの時計を見つめた山岡は、のそりとベッドに起き上がった。
「ふあぁぁぁ、朝ぁ」
出勤時間までまだまだゆとりがある時間帯。緩慢な動作で髪を掻き混ぜ、ぼんやりと室内を見回す。
「あぁ、そういえば昨日は日下部先生泊まりだっけ…」
今日はついに日下部千里の手術日だ。前日、家族の時間を取ると、日下部の母が泊まり込みで日下部千里についているというので、日下部も当直ではないけれど病院に居残ったのだ。
「運命の日か…」
そっと両手を目の前に広げて掲げ、きゅっと軽く握り締める。
「必ず、掬い上げる」
フゥーッと長い息を吐き、ゆっくりと深い瞬きを1つした山岡は、キッと視線を鋭くして、コクリと1つ頷いた。
するりとベッドを抜け出し、リビングへ、そのまま対面式のキッチンの向こうへ向かう。
日下部が在宅していないときでも、ストックされたおかずが何品かしまわれた冷蔵庫は、かなり充実のラインナップだ。
とくに好き嫌いのない山岡は、ご丁寧に中身が透けて見えるよう透明なタッパーに入れられたおかずから、適当に数品選び出してレンジにかけた。
「ちゃんと朝食取りましたよっと」
俺がいないときでも食事を疎かにするな、と怖い顔で言いつける日下部を思い浮かべながら、山岡は空になったタッパーを綺麗に洗って分かるように並べる。
「んっしょ、っと…」
ゆっくりと食事を済ませ、顔を洗い、着替えをし、ようやく家を出ようと玄関に向かった時には、出勤時間まであと20分弱という時間帯になっていた。
「あ、まずい。ゆっくりし過ぎた」
日下部が一緒のときは車ですぐの道のりだけど、山岡1人のときは基本歩きだ。
急患に駆けつけるときはタクシーを使うこともあるけれど、20分あれば早足ならたどり着ける。
「有酸素運動がてら、軽く走って行こうっと」
ジョギング、ジョギング、と、ネクタイをばっちり締めたスーツ姿ですることでもないと思うのだが、山岡は戸締りをしたマンションから小走りで駆け出す。
「ん~っ、清々しい」
今日のオペは成功する気がするなぁ、と呑気に朝の光に眩しそうに目を細めながら、山岡は軽やかな革靴の足音を響かせた。
ふと、病院へ向かう曲がり角に差し掛かったとき、向かいの道路を、救急車がサイレンを鳴らして疾走してくるのが見えた。
「ん?うち?」
山岡が曲がるはずの交差点に、救急車が警告音に変えたサイレンを鳴らしながら突入してくる。
青赤関係なく、そこらにいた車が全て脇によけて停車したのを見計らって、救急車が注意深く徐行をしながら交差点を走った。
「あれ…?違ったか。行っちゃった」
山岡の病院の方向に曲がっていくのかと思った救急車は、そのまま交差点を通過し、真っ直ぐに別の道路を駆けて行った。
遠ざかる救急車の音が、微妙に音を変えながらこだましていくのをなんとなく騒めく気持ちで見送る。
その余韻が消えるか消えないか辺りで、山岡はハッと手元の腕時計に目を落とした。
「あ、まずい。のんびりしている時間はなかったんだ」
思わず救急車の出現で足を止めてしまっていた山岡は、ハッと出勤時間ギリギリだったことを思い出し、慌てて交差点を曲がっていく。
「こんな大事な日に遅刻は笑えない」
なにせ、恋人の父親の手術日だ。特別扱いはするなと日下部辺りは言うだろうけれど、それでも普段とはやっぱり気合の入り方は違う。
タッタッと軽やかな革靴の足音をさらに小刻みな小走りに変えて、山岡はようやく見えてきた病院の門の中に駆け込んだ。
先程すれ違った救急車のことは、そのまますっかり忘れ去ってしまった。
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