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第341話

「お~い、原先生。いい仕事みっけ。あげようか」 カタカタと、医局でデーター処理をしていた日下部が、不意にパソコンの画面から目を上げて、原を振り返った。 自分の机で何やら文献をひっくり返して読み漁っていた原が、怪訝な顔をして首を傾げる。 「なんですか?」 「ん~?ちょっとお使い」 ピラピラと、数枚の書類の束を振っている日下部に、原の嫌そうな目が向いた。 「パシリってことですか」 「身も蓋もない。でも、行き先は薬剤部だよ?」 クスクスと、悪戯っぽく目を細める日下部に、原の目がパッと輝いた。 「薬剤部!行く!行きます!マジっすか!」 まさかアンタが、とだから何度言えば懲りるのか、まったくもって学習能力のない暴言を漏らしながら、原がガタンと立ち上がった。 「し、か、も、里見先生宛て」 「マ~ジ~か!神様~」 「もっと言っていいよ」 パタパタと、書類で自身を仰ぎ、偉そうに胸を反らす日下部に、原が「天才オーベン様」「日下部大明神様」と、普段とは真逆の敬称を、大袈裟なほど並べ立てている。 「クスクス、本当、きみってチョロイよね」 「なんですか?あぁもう何でもいいです、神様仏様日下部様。そのお使い、おれめにぜひっ」 お恵み下さい~と日下部を崇めているところに、不意にガチャッと医局のドアが開き、スクラブ姿の山岡が入ってきた。 「…って、なにやってるんですか?お2人とも…」 原のアホな発言と、日下部の何やらとても楽しそうな笑顔を目と耳に入れ、山岡が一瞬引いている。 「ん~?この子、揶揄うと面白くってね、つい」 遊んじゃった、とウインクをして無邪気に笑う日下部に、山岡が呆れて苦笑を浮かべた。 「山岡先生は?回診終わった?」 「はぃ。日下部さんのところも診てきましたけど、オペ前の体調としては文句なく万全でした」 「そう。後数時間で」 「はぃ」 「分かった。俺、ちょっと母さんの様子も見てきたいし、少し上にいるな」 「分かりました。病棟はオレ1人で大丈夫です」 急変、不調者もなく平穏でした、と微笑む山岡に頷いて、日下部がゆっくり椅子から立ち上がる。 「それじゃぁ原は、これ、頼むな」 「はいっ!行ってきまっす!」 パラリと日下部から書類を渡されて、原がピシリと背を伸ばし、敬礼までしそうになっている。 「ふふ。くれぐれも、長時間居座るようなことがないように」 「分かってます!」 向こうも仕事中だからな?と釘を刺す日下部に、威勢よく答えた原が、1分1秒が惜しいとばかりに医局を飛び出して行く。 「なんなんです?」 「あぁいや、ちょっと薬剤部に使いをね」 「あぁ」 なるほど、と納得する山岡は、原がどうやら里見と交友関係を持てたらしいことを日下部から聞いていた。 「じゃぁ俺も。今日は悪いな」 「いぇ。いってらっしゃい」 行ってくる、と医局の出入口に向かう日下部を、山岡が呑気に見送る。 今日の日下部は、出勤扱いにはなっているものの、病棟、外来、どちらの業務も外されていて、1人気ままなフリーに当てられていた。 プラリと手を振って医局を出て行く日下部の後ろ姿が、パタンと閉じたドアの向こうに消えていった。 そうして午後、日下部千里の手術、30分前。 麻酔科、オペ室スタッフが準備を始めている頃、山岡は日下部と共に、日下部千里の病室にいた。 「ご気分はいかがですか?」 「うん。悪くはないよ」 「そうですか。後30分ほどで手術の時間になりますが、極度な緊張感や恐怖感はありますか?」 あれば、手術室へ行く前に、前投薬をしますが、と続ける山岡に、千里はゆっくりと首を振った。 「まったく感じていないよ。とても穏やかだ」 「そうですか、分かりました」 「うん。山岡先生」 「はぃ」 「よろしく頼んだよ」 きみに全てを委ねる、と豪快に微笑む千里に、山岡がゆるりと目を細めて、ゆっくりと頷きを返した。 「では。オレは一足お先にオペ室に向かいますが」 「あぁ」 「千洋さんは残していきますから。オペまでの時間、どうぞご家族でごゆっくり」 「なんだ。おまえは中に入らないのか」 ペコリと頭を下げる山岡から、ふらりと日下部に視線を移した千里が、怪訝な顔で息子を見つめた。 「無理だって」 「何故」 「あなたの身体のなかを間近で見ろと?俺は医者だよ。中身を見れば、それだけで状態が分かる。それを俺に、その場に立ち会って、冷静に見ていろと?」 「ふむ」 「それがどれだけ難しいことか、あなたには分からないよ」 それは医者である日下部にしか分からないことだろう。医者であり、患者の息子である日下部にしか。 「そうか」 「うん。まぁ、モニター室で、オペの様子はリアルタイムで見させてもらうけどね」 「そこならいいのか」 「ま、万が一取り乱しても誰にも見られないし、うっかり口や手を出すこともない」 「なるほどな」 パニックを見せても安心か、と笑う千里は、それでも日下部がそうはならないだろうと思っている。 「母さんと待合室で待ってあげられないけど」 「えぇ、構わないわよ。私は1人で平気。あなたはちゃんと、この人の手術の様子を、見てあげなさい」 執刀医からのまた聞きでも、同じ医者ならオペの様子や何の処置がどう行われたかは分かるだろう。 けれど、リアルタイムで見ることが叶う環境があるのなら、後で説明を聞くよりもそちらの方が何倍もいいに決まっている。 力強く微笑む母に背を押され、日下部は気丈な母を頼もしそうに見つめた。 「それでは、オレは失礼します」 出て行くタイミングを逃していた山岡が、そこで区切りをつけてか、そっと病室を後にする。 顔を上げて真っ直ぐに廊下を歩き始めた山岡の目は、キラリと鋭い、手術前の医師のものになっていた。

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