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第343話

「手術は無事、成功しました」 スッと頭から帽子を取り去り、ペコリと軽く会釈をした山岡は、待合室で手術の終わりを待っていた日下部の母に静かに告げた。 「ありがとうございます…っ」 スッと伸びた背を、綺麗に折り曲げた日下部の母が、深々とお礼を示す。 その頭頂部を黙って見つめていた山岡は、ふわりと微笑んで、その身体に手を伸ばした。 「お義母さん」 とん、とその肩に触れた山岡の手に、日下部の母がゆっくりと顔を上げる。 「予後は、まだ油断はできませんし、術後合併症が出ないとも限りませんけれど…取りあえずは、ひと安心です」 「はいっ…」 「あの、オレ…」 「えぇ。えぇ、泰佳さん。頑張ってくれましたね」 いい子、頼もしいわ、と山岡の身体を抱き寄せる日下部の母に、山岡がぎこちなく身体を強張らせながら、嬉しそうにへにゃりと微笑んだ。 「お、義母、さん…」 ふらりと持ち上がった山岡の手が、躊躇うように空中で震えて、きゅっと握り締められる。 「ありがとう。ありがとう」 いい子、ありがとう、と背中を何度も撫でる日下部の母の手に、山岡はふにゃりと幼子のような泣き笑いを浮かべていた。 パタパタと、廊下の先から近づいてくる足音が聞こえ、ヒラリと翻った白衣の裾が見えた。 「山岡先生、お疲れ様…って」 ひょっこりと、廊下の陰から姿を現した日下部が、何故か待合室前の廊下、術衣のままの山岡と、母親が抱擁している姿を見て目を丸くした。 「ちょっと母さん!何事?これ、俺のだから!」 盗るな!と文句を垂れながら、日下部が駆け寄って来て、山岡をその手から奪い取る。 「ふふ、まぁ怖い。私は頑張ってくれた泰佳さんを、労っていただけだわ」 「それも俺の役目だから」 油断も隙もない、と母を警戒する日下部が、山岡の身体を抱き締めながら、ズルズルと母から遠ざかっていく。 「ちょっ、日下部先生?あのっ、他の方も見てます!だから、そのっ…」 「院内で今さら」 誰も気にしない、と山岡の苦情を気にも留めない日下部は、堂々カミングアウト済みの病院内で、遠慮をするということを知らない。 「お疲れ様」 「相変わらず、見事なオペだったね」 「成功おめでとう。ひと段落ですね、日下部先生も、よかったですね」 ゾロゾロと、オペ後の脱衣を済ませたスタッフたちが、山岡を抱き締めた日下部の横を通り過ぎていく。 「ほら見ろ」 気にしているのはおまえだけ、と山岡に向かって微笑む日下部に、山岡の別の意味で泣きそうな顔と、母の呆れ返った目が向いた。 「千洋さん…。では私は、千里さんのところに向かいますわ」 あなたたちはもう勝手にやってなさい、と言い置いて、日下部の母がするりと踵を返す。 「あぁではご案内いたしますよ」 ふと、その声を聞き止めた光村が、通常のICUではないですからね、と、日下部の母を連れてその場を立ち去っていった。 「あ、の、日下部先生…?」 ふと、すでにもう誰もいなくなってしまった廊下で、いつまでも山岡に抱き付いたまま離れない日下部を、山岡がオドオドと窺った。 「うん」 「……あの、えっと」 「うん。ごめん。うん。ありがとう」 ぽそりと小さく囁かれる日下部の言葉に、山岡はこうして日下部が動かない意味を察して、「はぃ」と小さく頷いて、そっとその背に腕を回した。 「成功しました」 「うん。分かってる」 「見守っていただいて、ありがとうございました」 「礼を言うのはこっちだから。おまえだから、あんなに短時間で、あんなに的確なオペが出来た」 「ふふ、ありがとうございます。でも、スタッフのみなさまも、モニター室で応援して下さった日下部先生も、みんなの力があったからです」 1人で出来たことじゃない、と微笑む山岡に、日下部がクスッと小さな笑い声を漏らした。 「そうだな。おまえならそういうと思った。それにしても、原」 「え?」 「途中、やらかしただろ」 光村先生がフォローしていたけど?と笑う日下部が、ようやく山岡の身体を抱き締めていた腕を緩めた。 「あぁ。大した事じゃありませんでしたよ?」 「でも、やってくれた」 「まぁ、異様に緊張していましたからね。それを解してあげないまま、オペに入った執刀医の責任です」 「クスッ、おまえといい、光村先生といい、甘いね」 「今日は残業はなしにしてあげて下さいよ?あの布陣で、緊張しない研修医がいたら相当です」 いつもの指導医もいませんでしたし?と笑う山岡に、日下部も苦笑を漏らした。 「俺か」 「いい意味でも悪い意味でも、日下部先生の前とそうでないのでは、原先生の言動は大分変わりますからね」 ほどよくリラックスしている、と微笑む山岡に、日下部は苦い顔のままゆっくりと息を吐いた。 「一番甘やかしているのは俺か」 「なんだかんだ言って、懐に抱え込みまくっていますからねぇ」 「これは、そろそろ子離れを考えないと、あいつのためにならないな」 依存する前に、と呟く日下部が、真剣に原の進退を考え始める。 「まぁでも今日は…お疲れ様でした」 「おまえもな、お疲れ様」 医局、戻りましょう?と微笑む山岡に促されて、日下部もようやく、落ち着いたらしい足を動かし始めた。

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