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第345話
「で、何がどうしたって?」
ふぅっ、と疲れたような溜息を漏らした日下部が、薬剤部までひとっ走りして戻ってきた山岡を迎えて、ドサリと自分の事務椅子に腰を落とした。
「あ、はぃ。…えっと、原先生は?」
「ん~。そこ。あまりに取り乱して暴れて手が付けられないから、鎮静剤入れた」
シラッと言い切って、クイッとソファに顎をしゃくる日下部に、山岡が苦笑いしながら頷いた。
「よく寝てますね」
「あぁ。だから、何を話しても大丈夫」
「はぃ、分かりました。あの…」
「うん」
ソファでスゥスゥと寝息を立てている原をチラリと見て、山岡はゆっくりと口を開いた。
「里見先生、今朝方、自宅のアパートの浴室で、溺れていたところを発見されたそうです」
「溺水…?」
「はぃ。見つけたのは同居している大学生の妹さんで…昨夜は泊まり掛けで大学で研究をしていて、明け方帰ったら、里見先生が浴室で溺れていたって」
「っ、それで」
「はぃ。いつも、里見先生は出勤前にシャワーの習慣があったそうで。でも今朝は、いつもなら家を出る時間にまだシャワーの音がしていたから変だなって覗いたそうで…」
「つまり…」
「はぃ。溺水から、それほど時間は経っていなかっただろうと。けれど、妹さんが救急車を要請したときには、すでにアレスト(心肺停止)で…」
ぎゅっと眉を寄せて説明を続ける山岡に、日下部の表情も色を失くしていった。
「どうにか、CPRで心拍は再開したそうですけれど、意識はまだ…」
フルリと首を振った山岡に、日下部が呼吸を整えながらそっと口を開いた。
「アレストから、何分?」
「少なくとも5分以上。救急隊員が駆けつけてからの蘇生です。8分から、それ以上は経っているのではないかという話でした」
「っ…」
淡々と話す山岡の言葉に、シーンと重い沈黙が医局の空気を支配した。
会話をしている2人は医者だ。その数字が何にどれだけの影響を及ぼす話なのか、どれだけ絶望的な数字なのか、言わずとも分かっていた。
2人の頭には、同時に同じ文字が思い浮かんでいた。
「原先生は…」
「うん。今はその話を知らずにこうして静かに眠っているけれど」
「もしも、これを知ったら…」
「うん。どう、なってしまうん、だろうな…」
ぐにゃりと表情を歪めた日下部が、辛そうに原を流し見た。
「今日は、いつも通りの日常が、いつも通りにスタートしたはずだったんです」
「うん?」
「いつもより少しだけ清々しくて、いつもより少しだけ緊張していた今朝」
「うん」
「それは、日下部先生のお父さんのオペがあったからで、何も変わらない、いつも通りの1日が過ぎていくと思っていました」
「うん」
「だけど今朝、そういえば出勤前に、オレはいつもと違う不協和音を聞いていた」
「山岡…?」
「救急車。今思えば、あれが」
里見を連れて行く足音だったのかもしれない。
里見が去っていく、不協和な足音。
「そ、っか…。例の症状で、かかっていた病院に搬送されたらしいからな」
「ん…。っ、里見先生…っ、な、んで…」
「事故か?」
「……」
「じ…っ」
ゆるゆると、ただ首を横に振る山岡に、日下部もそれ以上の問いかけは無意味だと分かった。
「分からない、か」
「はぃ」
「彼女は…」
「っ、ん…生きると。生きたいと、そう、言っていたんです。なのにっ、どうして、こんな…」
スゥッと目から流れ落ちた一筋の雫が、静かに山岡の頬を伝い落ちた。
「あまりに、残酷です…っ」
ぽろりと涙を流す山岡の、苦痛に満ちたその声が、悲痛に医局の空気に溶けていった。
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