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第348話

その、午後。 もたらされた悲痛な報告に、原の顔から完全に表情が消えた。 『脳死』 ぐわん、と脳みそを揺さぶるかのようなその言葉が、山岡の口から静かに発せられた。 「っ…」 ぶわりと水の膜を目に張らせながら、原が鋭く息を呑む。 辛そうに目を細めた日下部が、何かを堪えるように深く俯いた。 「駄目、だったか…」 「はぃ。結局、12分以上の呼吸停止だったそうです」 脳の損傷状態は相当だったらしい。山岡を含め、医者である日下部と原はその数字に、その現実に絶望した。 「原先生…」 先程、たまたま通りかかった調剤室近くの廊下で、バタバタと慌ただしく駆けてきた薬剤部長と出くわした。 山岡は、その表情が尋常でないことに気が付いて、咄嗟に呼び止めてしまっていた。 「里見先生が、どうかしたんですか?」 そう確信的に尋ねた山岡に、薬剤部長がもたらしてくれたのが、先の情報だった。 告げるか告げないか迷いながらも、パタパタと医局まで戻ってきた山岡は、ちょうど中にいた日下部と原にそのことを伝えたのだ。 「……」 「っ、なんで。どうして…?」 ぐしゃりと顔を歪め、その場にガクリと膝をついた原が、呆然としたように呟いた。 「だって、玲来さんは、生きたいって…。簡単な病気じゃないことは分かってる。それでも、希望を捨てずに頑張りたいって、言ってたんですよ?」 「……」 「っ、だから、一緒に、進んでもらえますか?って。まずは友達から…っ、一緒に、日々を、過ごして行ってもらえますかって…っ、笑って、いた、のに…っ」 話しているうちに様々な感情が溢れてきのだろう。皮膚が白くなるほどに握り締められた拳が、ダンッと床に叩きつけられた。 「なんでっ。なんでっ…脳死だなんてっ。なんでっ!助けてよっ、救ってよっ。誰か…神様っ、誰でもいいっ、玲来さんを…っ、助けて…」 うわぁぁぁっ、と身が引き裂かれるような悲痛な叫びを漏らしながら泣く原を見て、日下部が小さく息を吐きながら首を振り、山岡が困ったように表情を歪めた。 『山岡先生?』 ふと、そんな山岡の困惑に気づいたのだろう。 日下部が、原の様子を横目で窺いながら、そっと山岡に近づいた。 その耳元で、山岡にだけ聞こえる声でこっそりと囁く。 『山岡…?』 『っ、日下部先生っ』 『うん?』 日下部の声に合わせて声を潜めながらも、山岡がくしゃりと顔を歪めて小さく囁いた。 『この状態の原先生には聞かせられそうにないのですけど…』 『うん』 『里見先生、ドナーカードを、持っていた、そうで…』 『っ!』 山岡の一言に、短く息を詰めた日下部の目が見開かれた。 『それは…』 『はぃ…』 言葉もなく固まる日下部は、医者だ。 それがどんな意味を持ち、これからどうなっていくのかを知ることは容易かった。 『そうか…』 『はぃ』 『そうかぁ…』 あぁ、っ、と両目を片手で覆い隠した日下部が、その姿勢のまましばらく動きを止めた。 『日下部、先生…』 そんな日下部にどんな言葉も掛けられず、辛そうに目を伏せた山岡の耳に、ふと原の悲痛な叫びが再び届いてきた。 「嫌だ。いやだ!認めないっ、玲来さんは死んでない。まだ、死んでなんかっ…」 「っ…」 ぶんぶんと、首を左右に振り乱し、パラパラと捨て息を巻き散らしながら原が叫ぶ。 「嫌だっ。嘘なんだっ。脳死だなんて。違うんだっ、ただっ、まだ眠っているだけでっ。いつか、いつか必ず…絶対、目を覚ますんだから、だから…っ」 泣きわめく原を見て、日下部の目元の手がふらりと身体の横に落ちた。 「原…」 するりと衣擦れの音を響かせて、そっと原の側に行き、床に膝をついた日下部が、その悲痛に震える肩に触れる。 びくりと背を震わせた原が、ゆるゆると左右に首を振った。 「っ、いやだ。いやだ、日下部先生…。玲来さん、は…っ」 ぼろりと大粒の涙を目から散らして、震える唇をわななかせた原に、日下部の目がそっと伏せられる。 「玲来さんはっ…死んだり、しない…っ」 信じない、と呟く原の言葉が、重苦しい医局の空気を震わせ、日下部と山岡の胸を、冷たく貫いた。

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