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第351話
「っ…」
息も継げぬような沈黙が、一瞬医局内に降り立ち、けれどもそれはすぐに、日下部の長く細い吐息に破られた。
「追及するな、原」
「っ……」
「ドナーの情報など、追及するんじゃない」
静かに、淡々とした命令口調で紡がれる日下部の言葉に、原が駄々をこねた子供のように、イヤイヤと首を振った。
「っ~~、無理です出来ないっ…」
どうしたって考えてしまう。その、可能性。
髪を振り乱し頭を振る原に、日下部はそっと吐息を漏らした。
「きみが見るべきなのはレシピエントの命だ。レシピエントの命を見ろ」
「っ嫌です分からない出来ない、無理だ…っ」
「無理でも!きみが見るべきなのは、レシピエントの命、だ」
「っ~~!」
嫌だ、と叫ぶ原が、くしゃくしゃに歪んだ顔を、2人の先輩医師に向けた。
「行くんですか?日下部先生は、行けるんですか?」
ふらりと彷徨う目を向けた原に、日下部が黙ってこくりと頷いた。
「っ…山岡先生もっ、執刀するんですか?そのオペ」
「はぃ」
こくりと頭を上下させた山岡の方は、はっきりと回答を口にした。
「っ~~!どうしてっ…どうして行けるんだっ…」
ぎゅぅと白衣の腕を掴まれて、山岡は、その硬く白くなってしまった原の拳を、やんわりと振り払った。
「だってその臓器はっ…その命は…っ」
「原先生…」
「っ~~!山岡先生はっ、もしもっ、もしもこれが、日下部先生だったら?このドナーが、日下部先生の可能性があったとしたらっ…」
「……」
「それでも山岡先生は行くんですかっ?」
再び山岡の腕を捉えて叫ぶ原に、山岡はゆっくりと息を吸って、フーッと長く吐き出してから、ふわりと微笑んだ。
「はぃ」
「っ~~!あ、なた、は…」
「行きます。行って、執刀します」
こくりと頷いた山岡に、原の手がふらりと離れ、眩暈を起こしたかのように足が1歩後ろに下がる。
「あなたは…」
ダラリと身体の横に落ちた手が、ぐしゃりと握り締められた。
「原先生。すみませんが、原先生のオペ室への立ち会いを、拒否します」
不意に、山岡がそんな原を見て、きっぱりと宣言した。
「っ、っ…」
「すみません、日下部先生。とても勉強になるオペかとは思いますが、原先生の入室は断らせていただきます」
冷たく、厳しく、原を見据えて言い切った山岡に、原の握り締められた拳が震えた。
「っ、だ、れが…っ」
「原?」
「誰がっ、玲来さんかもしれない命を奪って、移植オペが行われるオペ室なんかにっ…」
「原ッ!」
「こっちから願い下げです!そんな、そんなオペッ…」
ギシリと奥歯を軋ませて、凄惨な睨みを利かせた原が、憎しみを込めたような目で山岡を見据えた。
「人でなし…っ」
「原ッ!」
「人でなしっ。冷血人間っ。山岡先生、あなたは…あなたはっ…」
喚く原に、ヒラリと日下部の平手が翻った。
「ッ…」
パンッ、と乾いた音が響き、原の頬で日下部の平手が弾ける。
「きみはっ…」
「構いません、日下部先生」
「だけどっ…」
言い募ろうとする日下部に、ふわりと軽く首を振って、山岡はくるりと踵を返した。
「行きましょう、日下部先生」
状況の確認をしに行きたいです、と、山岡は日下部のみを誘って医局を出て行こうとする。
「っ…」
その背中を、強かにぶたれた頬を片手で押さえながら、原が敵意に満ちた目でギリギリと睨み据えていた。
「チッ。きみは少し、ここで1人で頭を冷やしていろ」
原の暴言も、日下部の暴挙もするりと流し、この場を去って行こうとする山岡を、日下部は追いかける。
凶悪な舌打ちを1つ落とし、踵を返した日下部は、医局のドアのノブに掛かった山岡の手が、ぴくりと一瞬だけ動きを止めたことに気が付いた。
「山岡…?」
きゅっとドアノブを握った山岡の手が、ゆっくりとそれを押し下げる。
その口から、スゥーッと長く、息が吸われたかと思ったら、その肩が、ぴたりと動きを止めた。
「オレも、オレが人でなかったら、どんなに良かったかと思います」
出て行く、瞬間。ぽつりと落とされた小さな山岡の呟きが、淡く切なく医局の空気を震わせた。
「山岡っ…」
パタリと閉まっていくドアをすんでのところで押さえ、日下部が廊下に出て行った山岡の後を追う。
「っ~~!」
ぐしゃりと顔を歪めた原が、へにゃりとその場にへたり込み、床に蹲る姿が、ポツリと残された。
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